栃木の城 多気山城 登城日:2018.1.21

別名 多気城、御殿山城
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 多気兵庫守
築城年 文明4年(1472)
主な改修者 宇都宮国綱
主な城主 多気氏、宇都宮氏
廃城年 慶長2年(1597)
遺構 本丸、土塁、堀
指定文化財 市指定遺跡
所在地 栃木県宇都宮市田下町
宇都宮城址から北西に9kmほど走ると、最初に見えてくる山が多気山(たげやま)です。
この山塊を全体に要塞化したのが多気山城で、北条氏に圧迫された宇都宮氏が最終段階で居城として整備しました。


名産の大谷石の採石場はすぐ近くです
この山の中腹には平安時代から“多気不動尊”という真言宗の寺院があり、現在でも北関東で知られた霊場として多くの人の信仰を集めています。
護摩行や火渡り行の日にはたくさんの観光客が集まるそうで、その為の参道や駐車場はよく整備されており、中腹までは楽に登れます
。
さらに駐車場から山頂の本丸跡までは遊歩道が整備されていて、山頂からは宇都宮市街が一望できる為、人気のハイキングコースにもなっています。

登城路は多気不動尊の参道がそのまま使えます

5分ばかりで中腹の駐車場に着きました

肝心の多気山城ですが、多気兵庫守の居城だったという記録があるそうです。
この人は時代と位置関係からして、宇都宮氏の家臣で多気の地を領していた豪族なのでしょうね。
自称でしょうが、兵庫は寮なので長官のカミは“頭”の字を使う筈です。
宇都宮氏はこの城を詰め城と位置付けていた…という説もありますが、宇都宮氏が一丸となって統治し戦った時期は本当に短く、その時々で力のある家臣の居城が詰め城の機能を果たしていたと考える方が妥当な気がします。

登り始めると、すぐに郭と虎口が現れます



やっと本丸が見えて来ました
多気山城は戦国末期の天正4年(1576)から拡張整備が始まり、全山要塞化されて宇都宮城に代わる宇都宮氏の居城になった…と言われます。
その背景には北条氏の関東制覇が最終段階になり、一緒に抗戦して来た与力大名や有力な家臣が北条に寝返る事態があり、『もう宇都宮城では守り切れない』…との宇都宮国綱の判断によるものです。

頂上に着きました。 ちゃんと削平された広い平場になっています

早朝なので、宇都宮方面の眺望はモヤってて効きませんでした

本丸は空堀と土塁で幾つかに区切られていました
多気不動尊の駐車場から登って行くと東の尾根筋を登る事になりますが、すぐに郭の遺構が現れ、郭は階段状に延々と積み重なって続いており、最後に山頂には広い主郭が形成されています。
主郭の広さからして、居城に改変されたのは間違いのないところですね。

尾根に沿って郭は続いている様ですが、深い藪に覆われて侵入を拒んでいます

北側の眺望は拓けてて、日光の山々が見えます 右から女峰山、大真名子山、そして男体山も手前のギザギザ山の向こうにチラッっと覗いています
すべての尾根にこの様に郭が形成されて、巨大要塞と化していた様ですが、残念ながら現在整備されているのは遊歩道沿いの東尾根のルートだけで、短時間の訪城で藪に攻め込んでそれを体感する事は叶いません。
ここはまた、全山踏破してスケッチを描かれた余呉さんのイラストをお借りして、全貌をイメージして見ます。

余呉さんのHPから借用 総構えの土塁を持つ巨大な城ですね
これを見ると、
『短絡に北条に屈して束の間を生き永らえるより、宇都宮の総勢6千が籠って徹底抗戦するぞ!』
『北条はいずれ豊臣に潰される、その後も宇都宮が生き残る術はこれしかない!』
といった国綱の的確な現状分析と、周到な計算が見て取れる様な気がしますね。