栃木の城  宇都宮城  登城日2018.1.20
 
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 別名      亀ヶ岡城
 城郭構造   輪郭梯郭複合式平城
 天守構造   なし
 築城主     藤原宗円
 築城年     平安時代末期
 主な改修者  本多正純
 主な城主   宇都宮氏、蒲生氏、本多氏、奥平氏、戸田氏
 廃城年     慶応2年(1868
 遺構        土塁、堀、復元櫓、土塀
 指定文化財  なし
 所在地      栃木県宇都宮市本丸町
 
 
 この日の最後の訪問地、宇都宮城にやって来ました。
宇都宮城はこの地の豪族:宇都宮氏の居城として築かれ、単一の氏族で500年にわたる治世を誇った城です。
 
 宇都宮氏は、藤原北家の流れをくむ藤原宗円が前九年の役での功により、宇都の宮(当時は二荒山神社をそう呼んでいた)の別当の職を与えられて定住したもので、その孫の朝綱の代から“宇都宮氏”を名乗りました。
*古代に上野・下野を統治した毛野氏の末裔説もあります
 
 平安末期、源頼朝に従った宇都宮氏3代:朝綱は源平合戦や奥州征伐に活躍して有力御家人の仲間入りをしますが、5代:頼綱のときに公田をめぐる朝廷とのトラブルがあり、また北条時政の後室の“牧の方”の娘を正室にしていた事から平賀朝雅の事件に連座して討滅対象とされてしまいます。
 
 ここは頼綱が出家して異心の無い事を示してやっと赦されていますが、鎌倉幕府草創期は運が無く、乗り遅れた感じですね。
 
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市役所の駐車場にクルマを停めると、目の前が城址です
 
 
 鎌倉末期、9代:公綱は執権:北条高時の命で上洛し、楠木正成ら討幕派と戦いますが、その途中に幕府が斃れ公綱は降伏しました。
   しかし宇都宮勢の勇猛さは朝廷側諸将の知るところであり、そのまま建武政権の役人に登用されました。
 
 宇都宮氏には“紀清両党”と呼ばれる軍事集団が居り、要するに紀氏を祖とする益子氏と清原氏を祖とする芳賀氏の事なのですが、抗争の末に縁戚を結んで吸収したこの両氏が宇都宮氏の主力で、この後も縁戚を通じて親族となり、行く末に大きく関わって行くのです。
 
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復元されてるエリアは本丸の西側1/3、堀に架かる橋は遺構復元ではありません
 
 
 南北朝の争乱では、京に居た公綱は南朝側として活動しますが、下野に居た10代:氏綱は重臣:芳賀高名の進言により足利氏に従います。
 
 観応の擾乱でも尊氏に付いた氏綱は勝ち組で、上野・越後の守護に任ぜられました
 しかし、鎌倉公方の足利基氏が管領職に上杉憲顕を招聘すると、両国の守護職は取り上げられ、憲顕に与えられました。
 これに抵抗の意を示した氏綱でしたが、公方の軍に攻められて降伏を余儀なくされます。

 

 氏綱の後は基綱が継ぎますが、“小山義正の乱”で戦死し、12代は満綱が継ぐも嗣子に恵まれず、一族の武茂氏の持綱が12代を継ぎ、ここで宇都宮氏嫡流は絶えます。

 

 
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展示室にある本丸模型 手前の堀と土塁、両端の櫓が復元されています 虎口は左右(南北)にあり、この門も復元が決まっています
 
 鎌倉公方と管領の一体感も公方:足利持氏の権勢欲から乱れが生じて来ると、宇都宮氏も両者の間で翻弄されてしまいます。
 
 持氏の動きに危機感を持った幕府は、宇都宮氏をはじめとする北関東の御家人に見張り役を命じますが、鎌倉で幕府との情報窓口になっていた持綱は持氏の標的になり、誅殺されてしまいました。
 この時、嫡男の等綱は僅か4歳だったので、宇都宮氏の家政は持綱の実父:武茂綱家預かり代行したそうです。
 
 この行為はすぐに幕府に伝わり、幕府は近隣の守護に出兵を命じて鎌倉を攻め、持氏を自害に追いやりました(永享の乱)。
 鎌倉を脱して結城氏を頼った持氏の子達も幕府軍に取り囲まれて遂に降伏し、京に護送中に処刑されてしまいます(結城合戦)。
 
 これで一旦平穏になった関東でしたが、上杉氏による支配体制には東関東の御家人達に強い抵抗感があり、結局はただ一人生き残っていた持氏の子:成氏が下向して鎌倉公方が復活します。

 

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展示室はこの通用口の土塁の中にあります。 そう、この土塁は土ではなく、鉄筋コンクリート製なのです。 エレベーターもあります(^^)
 
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土塁の表面には専用のシートが貼られ、芝系の植物が植えられていて、屋上緑化の技術ですね
 
 
 しかし、幼児だった成氏も長じるに連れ反幕姿勢を取り、遂には管領:上杉憲忠を殺害してしまいます。
 裏切られた幕府は今川氏と宇都宮氏を鎌倉に攻め込ませ、成氏は堪らず小山氏などを頼りに領地の古河に逃げました(享徳の乱)。

 

 以後は利根川を挟んで上杉方と対峙し、古河公方を名乗るのですが、中途半端に存続させたが故にその北方の宇都宮氏は成氏の目の敵にされ、四方から攻撃されて、等綱は出家して臣従し赦しを請うしかありませんでした。
 
 跡を継いだ明綱も成氏に奉公しますが、心労が大きくて20歳で死んでしまいます。
 明綱に男子が居なかったので、家督15代は等綱の妹が嫁いでいた芳賀成高の子の正綱が継ぎました。
これでいよいよ宇都宮氏の血脈も絶えてしまいます

 

 
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土塁の内側には何ヶ所か出入り口がありますが、中は何かな?
 
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覗くと歴代当主の幟がありました
 
 正綱も成氏方として活躍しますが、成氏方に乱れが生じ、小山が上杉方に寝返ると雪崩れを打って離脱があり、正綱も上杉方転じた後31歳の若さで病没しました。
 
 16は15歳の成綱が継ぐのですが、成綱は内外に敵を抱える事になります。
若くて傍流の当主に家臣の忠義も緩み気味になりますが、叔父の芳賀高益が重臣として強力にサポートし成綱の統率を助けます。
 しかし子の芳賀高勝の代になると芳賀氏の専横が目立つ様になり、意を決した成綱は芳賀氏を攻めて高勝を自害させ、重臣達も再服従させました。

 

 外敵では佐竹氏と死闘を繰り広げます、長年の激闘を制した宇都宮氏は佐竹領に攻め込んで、しばらく再起不能なところまで追い込んでいます。
 宇都宮氏中興の祖とも言える成綱は、芳賀氏の当主に弟の綱を送り込んで基盤を確かにすると、忠綱に家督を譲り49歳で病没しました。

 

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階段から土塁上に登って行きます
 
 
 ところが、その芳賀興綱が結城政朝と結んで忠綱を攻め、忠綱は壬生綱雄の元に逃げ込みますが、間もなく急死(病死?)しました。
 18代は興綱の子の俊綱が擁立されますが、芳賀氏の実力者:高経と壬生綱雄が結託して仕組んだ事で、興綱はやがて彼らに殺害されてしまいました。

 

 芳賀高経が主権を持ち、傀儡の当主の俊綱という構図になりましたが、面白くないのは壬生綱雄です。
 俊綱も成長するにつれ高経に反感を募らせ、悉く対立する様になります。
 これは周辺豪族をも巻き込んだ抗争に発展し、俊綱は佐竹氏、小田氏と結びつき、高経は結城氏、小山氏を味方にします。

 

 俊綱は皆川、西方の兵を動員して児山城に居た高経を急襲して殺害すると、芳賀氏の刷新に益子氏の高定を当主に送り込みました。
 天文十八年(1549)、古河公方から”那須退治”を命じられた俊綱は那須へ出陣しますが、伏兵に狙撃されて戦死してしまいます。

 

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こちらは北側の清明台櫓 天守の代用でした。 ちゃんと木造で復元されています
 
 
 跡は子の広綱が6歳で継ぎましたが、全てを芳賀高定が代行する状態です。
この弱体化を待っていた壬生綱雄は宇都宮城に乗り込み、乗っ取ってしまいます。
 宇都宮城は綱雄の叔父の周長の尽力で返還されましたが、綱雄は鹿沼まで進出し、さらに北条氏を味方にして、宇都宮氏に敵対して行きます。
上杉信の関東進攻の際も、壬生氏だけは北条方を貫いています。
 
 広綱は病弱だったので、20代の家督は早めに子の国綱が継ぎます。
の母は佐竹の娘だったので、叔父の佐竹義重の支援を受けながら家政を行ないますが、北条氏の北への蚕食の勢いは凄まじくて、宇都宮城では支え切れないと感じた国綱は山城の多気山を拡充して移っています。

 

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こちらは南側の富士見櫓 少し意匠が違いますね
 
 国綱は同時に豊臣秀吉に使者を送って誼を通じるなど、的確な情勢判断も出来てた様です。
 しかし、頼みにしていた重臣の芳賀氏が北条方に離反し、多気山城が直接北条軍に攻められる絶体絶命のところまで追い込まれてしまいました。
 ところが、ちょうど間一髪のところで秀吉の北条征伐が始まります。
危ないところでした(^-^;

 

 芳賀氏、壬生氏、皆川氏などが小田原城に籠る中、国綱は秀吉の陣に参陣します。
実際には地勢上・戦略上からも北条方の北関東の諸城を接収するのが主な仕事だったと思われます。
 小田原が開城降伏した後、秀吉は宇都宮まで北上して“奥州仕置き”を行ないますが、この席で宇都宮国綱には“本領安堵”が言い渡されて、18万5千石の豊臣大名として再出発しました。

 

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櫓間は土塀で繋がっていて、これも木造の本物みたいです 土塀には狭間が切ってあり…
 
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角度もホンモノですよ(^^)
 
 
 文禄の朝鮮出兵にも参加して活躍した国綱でしたが、浅野長政による太閤検地で過少申告(実高は39万石もあった?)が指摘され、秀吉から突然改易が言い渡され、宇喜多秀家にお預けとなってしまいます。
 
 これは宇都宮氏の重臣が浅野長政の三男:長重を嫡子の居ない国綱の養子にと先走った為に起きた感情のもつれが原因と判り、秀吉も次の朝鮮出兵(慶長の役)での働き如何では再興を赦すとの約束をしたのでした。

 

 再び朝鮮に渡った国綱は必死の働きを見せるも、その最中に秀吉が死去して、総員退却となったためにこの約束は反故にされてしまいました。
 これで平安時代から500年にわたった宇都宮氏の支配は幕を閉じ、子孫は水戸徳川家の藩士(3000石)として暮らしたそうです。

 

 
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本丸内は芝生広場になっていて開放されています 木々に囲まれた建物のエリアが以前から有った城址公園です
 
 宇都宮には会津から蒲生秀行が入り、関ヶ原の後は家康の外孫の奥平家昌が入ります。
 しかし病弱だった家昌は大坂の陣の最中に病没し、7歳の忠昌が家督を継ぎますが、要地の宇都宮の管理は難しいとの判断から古河へ転封となり、新たに家康の腹心だった本多正純が入ります。
 
 正純は宇都宮城を整備し直し、徳川将軍が日光参詣する際の御殿の建造など頑張りますが、家康色の強い正純は政争の末改易され(宇都宮釣り天井事件)、再度奥平忠昌が入り、その後は松平(奥平)家、本多家、奥平家、阿部家、戸田家、松平(深溝)家、戸田家と続いて明治維新を迎えました。

 

 戊辰戦争では宇都宮藩は新政府側を打ち出しますが、北行する幕臣の大鳥圭介らに攻撃占領されてしまい、それを新政府軍が攻撃したため、宇都宮城も城下町も悉く灰燼に帰してしまいました。

 

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利用者は犬の散歩が多いですね
 
 

 もう10年ほど前になりますが、転勤で6年余り宇都宮に住んでいました。
宇都宮城址は社宅のマンションから1kmほどの距離だったので、休日の散歩でよく立ち寄った場所です。
 
 赴任当初の城址には城の面影は残ってなく、城址碑と少しの広場、そしてその片隅に小さな資料館があるだけでした。
周囲の公共の施設といえば市役所とその駐車場しかなく、他は民間の住宅や商業施設に埋め尽くされていました。
 
 かつては関東7名城のひとつと言われた名城を、よくまぁ此処まで破壊し尽くしたもんだと呆れてしまいましたが、戊辰戦争のいきさつ等を考えると、やむを得ない流れだったのかも知れません。
 
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土塁の細かな凹凸など、忠実に復元されています 改めて見ると土の平城の最高級の城だった事が窺えます
 
 市の中心部というハードルの高さもあり、復元の意思ももう無いのだろう…と思っていましたが、赴任後3年目あたりで城址一帯に工事の囲いが出来ました。
『へぇ~、何か作るんだ』と看板を見たら、『宇都宮城復元工事』と書かれていたので、期待を持って見守っていました。
 
 復元城址が完成してオープンしたのはー宇都宮勤務の最終年の事でした。
正直な感想は『えっ?… 何してくれとんねん!』でしたね(^-^;
 本丸土塁の1/3くらいが復元されて、堀が掘られていますが、これが全て現代工法に依るもので、復元の概念とは程遠いシロモノです。
 さすがに存在しなかった大天守こそ建っていませんでしたが、けっこうショックを受けたものです。
 
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こちら側から見る清明台櫓は本当に絵になります
 
 あれから10年近く経ち、数々の城めぐりをして来た訳ですが、復元整備の動きが無い名城の多さに嘆く一方で、史実に忠実に復元された城址の惨状も目につきます。
 
 つまり税金を掛けて整備したものの、興味を持って訪問する人は殆ど無く、住民の益になっていないのです。
 その割に維持管理の費用は莫大で、特に城址を覆っていた木々を伐採すると風雨による損壊は驚くほど早く進みます。
 
 そう考えると、文化財指定の無い宇都宮城を、城の姿形は忠実に再現しつつも、現代工法で丈夫で壊れにくい構造にし、さらに文化施設やイベント会場、緊急災害時の避難場所にと、活用の付加価値を与えて行くという宇都宮市の判断は正しく思えます。
 
 もう訪れる機会は無いと思いますが、本丸全体が復元される日が来る事を楽しみにしています。
 
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