木曽義仲といえば、信州木曽の山中で生まれ育った“純朴な武将”とイメージする人も多いと思いますが、実はこの人、埼玉県産の坂東武者なのです。
 
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 その生誕地と言われる埼玉県中西部の嵐山町には、義仲に繋がる史跡なども幾つかあるので、今回は実際に訪ねて見て、義仲が生まれた背景などを考察してみます。
 木曽義仲(源義仲)は源義賢の二男であり、義賢が武蔵嵐山に居住した2年あまりの期間に生まれています。
したがって、義仲というより義賢とその周辺環境から見て行かねばなりませんね。
 
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大蔵館跡と言われる大行院には源氏三代の供養碑が集中してあります
 
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近年の建立ですが、凄い数です(^-^;
 
 源義賢とは、河内源氏の統領だった源為義の二男です。
為義の祖父の八幡太郎義家の時には、武家の統領の地位を確立した河内源氏でしたが、為義の頃になると一族や郎党による不祥事が相次ぎ、これを為義が悉く庇う態度だったので、朝廷の信頼を大きく損ねてしまいました。
これに平忠盛~清盛の伊勢平氏の台頭があり、相対的に浮かばれない地位に低迷していました。
 
 為義の長男(嫡男)は義朝ですが、義朝はこんな境遇に業を煮やして、為義とは袂を分かつ形で単身坂東へと下り、南関東に自身の地盤を築きつつありました。
 
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館主は秩父重隆で、義賢は居候なんですけどね
 
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義高も祀られています
 
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仲家は義仲の兄で、源頼政の養子になりました
 
 この頃の朝廷では、摂関家が操る近衛帝と鳥羽法皇の間で激しい権力争いがあり、為義は義賢を嫡男として扱い、摂関家(藤原氏)と太いパイプを作って、その武力背景となっていたのです。
 
 そんな折に、南関東で育てた兵力を携えた義朝が京に復帰して来ます。
義朝は妻の実家:熱田大宮司家を通じ鳥羽法皇に近づき、父:為義とは対極の道を選びます。
 為義は仁平3年(1153)、義朝の関東の地盤を拡大する事を防ぐ(同族の新田・足利勢力との離間が目的と思われる)ために武蔵国に義賢を派遣し、勢力集めを始めさせます。
 
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義賢の墓はここにあります
 
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古い五輪塔ですが、今は廟に守られています
 
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 帯刀先生(親王の警護役)だった義賢には上野の碓氷郡多胡に所領が有りましたが、武蔵の実力者だった秩父重隆の娘を娶って、比企郡大蔵の重隆の館に居住しました。
 秩父重隆は武蔵国留守所総検校職(実質の守護職)でしたが、秩父氏の中にも内紛があり、大蔵館とは都幾川を挟んだ菅谷に館を構える甥の重能(兄:重弘の子)は自分こそ秩父氏嫡流との思いが強く、険悪な関係にありました。
 重隆にすれば、自分の陣営に源氏の御曹司を抱き込む事で、重能に対し正統性を誇示する狙いがあったのでしょう。
 
 為義のこの動きに義朝は、長男の義平を鎌倉館に派遣し、勢力の引き締めを図ります。
さらに久寿2年(1155)、義平は秩父重能と利害の一致で結びつき、義賢と重隆の居る大蔵館を急襲します。
この戦いで義賢も重隆も討ち取られてしまい、為義は関東での勢力を失う事となります。
 
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川の向こうの林には畠山重能の菅谷館があります。 鎌倉を脱出した木曽義高が目指した場所ですね
 
 一方、秩父氏嫡流を取り戻したかった重能でしたが、現職を殺害したため叶わず、重隆の孫の重頼が受け継ぎました(のちの河越重頼)。
失意の重能は秩父氏の名を棄てて新たに畠山を名乗り、すぐに家督を嫡子の重忠に譲った様で、以降は義朝に与する事はありませんでした。
 そんな重能に義平は、義賢の子でまだ2歳の駒王丸を探し出して始末する様言い渡して鎌倉に引き上げますが、源氏に服従する気を失った重能は駒王丸を旧知の斎藤実盛に預けて逃がします。
 斎藤実盛は駒王丸を伴って信濃へと向かい、乳母が嫁いでいた木曽谷の中原兼遠に預けました。
そこで育った駒王丸は成人すると"木曽義仲”を名乗るのです。
 
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1kmあまり西にある鎌形八幡神社
 
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此処はかつて義賢の館があったとも言われ、義仲が生まれた場所と伝わっています
 
 義賢を失った為義ですが、この事でもう長男の義朝との仲は対立から抗争へと変わって行き、朝廷の内紛がピークに達した翌保元元年(1156)の保元の乱が起こります。
崇徳上皇を擁する為義の元には義朝以外の子がすべて集い、孤立した義朝は平清盛と結んで後白河天皇を擁し、激しく戦いますが、この戦いは後白河派の勝利に終わります。
 戦後、為義とその子達は捕縛されて斬首に処せられました。
義朝は自らの功と引き換えにもと減刑を嘆願しましたが赦されず、逆に自らの手で執行する事を命じられたそうです。
 この時に義朝の子の頼朝は9歳です。
親子、そして兄弟が争う極限の戦いを目の当たりにした頼朝、その中で形成されて行った“家族観”とはどんなものだったのでしょうか?
後ろに繋がっている気がしますね。
 
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 木曽に匿われた義仲は木曽で成人します。
その間に保元の乱の勝者だった義朝と清盛は互いに争い(平治の乱)、義朝は敗死してしまいます。
 武家のTOPを確定した清盛とその一族は、武力を背景に朝廷を圧迫して専制政治を行い、栄華を極めます。
 全国に平家追討の気運が高まった所で朝廷は源氏勢力に綸旨を出し、追討の狼煙を上げます。 義仲26歳の時でした。
 
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大正時代までは此処で流鏑馬が行われてたそうです
 
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産湯の井戸ですね
 
 いち早く呼応して旗上げした義仲は、瞬く間に信濃を平定して上野へと寄せますが、一方で義朝の子で伊豆に流罪になっていた頼朝もやや遅れて旗上げし、関東を平定して行き、両者は睨み合う事になります。
 図らずも先代の義朝VS義賢の構図の再現となり、一触即発の状況でしたが、此処は役割を棲み分ける事で双方が兵を収め、頼朝は関東平定へ、義仲は北陸道から京へ攻め上ります。
この時、義仲は協調の証しとして嫡子の義高を頼朝に預けて行きますが、これがその後に悲劇を生んでしまいます。
また、倶利伽羅峠で平家軍を破った義仲は、討ち取った首を実検する中で、斎藤実盛と書かれた老境の白髪首を見つけて愕然としたそうです。
 
 京から平家を追い落とした義仲でしたが、寄せ集めの義仲軍は市中での乱暴狼藉が絶えず、治安維持に失敗した義仲は朝廷の信頼を失い、頼朝に義仲追討の命が下ってついに源氏同士の戦いとなり、義仲は近江で敗死してしまいました。
 
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拝殿は江戸時代に建て直されたものだそうですが、一部の部材は古いのを再利用しているそうです
 
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彫り物すごいですね! 義仲は何気に後世の武士に人気があった様です
 
 義仲には義高の他にも何人かの子が居たそうで、3男と言われる義次郎は木曽の山中に潜んでいたものの、祖父:義賢の旧臣が住んでいた武蔵嵐山へと移動して来ます。
 この旧臣達は義賢が討死にした折に駒王丸を木曽に見送り、土着した者達で、“七氏九騎”と呼ばれていました。
 彼らは故あって義仲の上洛には同行せず武蔵に残っていましたが、義次郎を喜んで迎えます。
 
 そのうちの馬場家に入った義次郎は名を馬場義綱と改め、彼らに護られながらこの地で暮らしました。
 普段は目立たぬ様にと分散して住んだ七家(ときがわ町:馬場家、市川家、荻窪家 小川町:加藤家、横川家、伊藤家、小林家)でしたが、義賢や義仲の命日には集まって、来る日の為に武芸の鍛錬をしたそうで、それが現在も鏑流馬神事として残り、この七家の末裔の手で執り行われているのだそうです。
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