栃木の城 粟野城 登城日2018.1.20

城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 平野範久
築城年 延元年間(1336-1340)
主な改修者 斎藤秀隆
主な城主 平野氏、斎藤秀隆、落合徳運入道
廃城年 天正18年(1590)
遺構 土塁、曲輪、堀、井戸
指定文化財 市指定史跡
所在地 栃木県鹿沼市口粟野
今回は本当に山城らしい山城の紹介です。
粟野城が最初に築かれたのは南北朝時代初期の暦応元年(1338)で、足利尊氏配下の平野将監範久によるものだそうです。
平野氏という氏族は坂東の武士団の中では聞き覚えがないので、少し調べてみましたが、やはり居ません。



この時代に居た平野氏と言えば関西、特に摂津に何家か見当たりますが、その中でも“将監”を号した人物が居て、平野将監重吉という勇猛な武将が楠木正成に従って、千早・赤坂城で鎌倉幕府軍と戦っています。
重吉は六波羅探題に捕らえられて処刑されてしまいますが、この人の縁者(子)という事でどうでしょうか?



足利尊氏との繋がりはと言えば、鎌倉幕府討滅では楠木正成も足利尊氏も後醍醐帝の元で友軍です。
父を亡くした範久を哀れんだ正成が、『どうか足利殿の元で立派な武士にしてやって貰えますまいか…』と頼み込んで、尊氏も承諾した…という大河ドラマ仕立ての浪漫あふれるストーリーが浮かびました(^-^;
さて、尊氏の家臣となった範久には南朝方勢力だった下野粟野の地が与えられ、粟野城が築城されます。
尊氏からも『勇猛な父にあやかって将監を名乗るが良かろう』との言葉を貰ったのでした。(繋がりましたね)






粟野に加え粕尾、滑洲、南摩など、周辺の地域も支配していた平野氏でしたが、戦国期になると南から皆川氏の侵食が始まり、粟野城も皆川氏に奪取されてしまいます。
城主には皆川氏族の斎藤左衛門秀隆が入り、この頃に城は宇都宮氏との闘いを想定してかなり強化された様です。

山頂に着いて“本丸”を見下ろします

やはり、狭いですね


その見張り櫓の跡地には、太平洋戦争の遺構が…

この防空監視哨とは、敵機の飛来を監視して、その機数や機種、方角、高度などを連絡し、ルートの高射砲陣地が準備する為のもので、栃木県だけでも43箇所造られたそうです
戦国末期の天正年間になると、皆川氏は北条氏の圧迫を受けて、やがて交戦状態となります。
皆川城の南の草倉山で百日あまり睨み合いとなりますが、この間に北条氏の意を受けた*佐野氏が粟野城を急襲して奪取し、旧主の平野氏の子孫である平野大善久国を復帰させて守らせました。
その2年後、豊臣秀吉の小田原攻めによって、粟野城は廃城とされました。

山頂から見る北方面

そして南方面 空が広いですね。 これなら監視所として最適です。
太平洋戦争も戦国時代の戦いも、粟野城の機能は同じです。

城址だけに遊具も櫓風のデザインですが、現在聴こえるのは銃声でも爆音でもなく、子供達の歓声だけです(^^)
*これは城址史の公式な文章の転記なのですが、佐野氏の粟野城攻めに関してはその位置関係からかなり疑問があります。

地図にプロットして見ましたが、粟野城はもう宇都宮城の喉元ですから、此処を攻め取るには敵中突破の連続で無理がありますし、宇都宮氏を無用に刺激する事になります。
敢えてその危険を冒して奪取しても敵中に孤立する事になり、補給がままなりません。
この佐野氏というのは間違いじゃないかなぁ?