栃木の城 西方城 登城日2018.1.20

別名 西堀山城、鶴ヶ岡城
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 なし
築城主 西方景泰
築城年 永仁元年(1293)
主な改修者 皆川宗成
主な城主 西方氏、皆川氏、宇都宮氏、北条氏?
廃城年 慶長2年(1597)
遺構 郭、土塁、櫓台、竪堀など
指定文化財 なし
所在地 栃木県栃木市西方町大字本城
このまま一気に宇都宮城に乗り込む前に、西側の山地に築かれた山城群のうち代表的な二城を訪ねます。

西方城址へのベースとなる長徳寺 駐車場もあり、西方氏時代の根古屋かと思われます

鹿沼から都賀にかけた山間の地域は、戦国時代には宇都宮氏と皆川氏の激しい攻防が繰り返された地域でした。
普通に考えれば戦力的にも宇都宮氏の圧勝…と思える争いですが、皆川氏の予想を超える健闘と、宇都宮氏内部の基盤の弱さもあって、両氏の攻防は百年以上に及びました。
その為か、この地域の山城には見るべき城がたくさん有ります。
最初に訪れたのは西方城で、鹿沼から流れる思川が広い平地(関東平野)に流れ出る間際の山上にあり、交通の要地を押さえる為の城と思われます。
西方城が築城されたのは鎌倉中期で、西方景泰の築城となっています。
西方景泰とはやはり宇都宮氏の一族で、領地の最西端の境界を守るべく、居館と詰め城を築いて西方氏を称した様です。

駐車場にある縄張り図 南北500m、東西700mの城地 ぶったまげますね!

その後、代々宇都宮氏の属将:西方氏の居城で続きますが、戦国初期の大永3年(1523)、宇都宮忠綱はこの方面から皆川領に進攻し、皆川氏と合戦になります。
宇都宮勢の兵力は2千5百、対する皆川勢は7百で、皆川氏は苦戦し、当主の皆川宗成と弟の成明が討死にして総崩れの寸前まで行きましたが、この時に皆川氏と同盟していた小山氏、結城氏の連合軍が到着し、また別動隊が宇都宮方面へと北上を始めたため、忠綱は慌てて軍を返し退却を始めました。
この退き陣に乗じた皆川氏は追撃へと転じ、逆に西方領と西方城を奪取してしまいました。

下の方は竹林の中を登って行きます

その3年後、尊大不遜な宇都宮忠綱は家臣(芳賀氏&壬生氏)のクーデターによって廃され、新たに忠綱の弟:興綱が当主に就くと、皆川氏を継いでいた成勝は宇都宮氏と和睦して、その傘下に入っています。
和睦条件として、西方城は返却され、再び西方氏の手で維持管理されて行ったと思われます。

登城路は竪堀の底道となりますが、S字に曲がる竪堀も珍しいですね

遺構の説明看板がとても親切ですね 虎口の前に堡塁がある構造は埼玉の杉山城で初めて見ましたが

天文年間(1532-1555)になると南関東では北条氏の勢いが強まり、“川越の戦い”で古河公方・関東管領の連合軍が大敗すると、下野の勢力も直接脅威を受ける様になります。
そして、越後に逃げた管領:上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を伴って関東に出てくる様になると、事態はより一層複雑になり、下野の諸豪族も保身のために、その時々で離合集散するのが日常になって行きます。

山上の連郭のうち最初の北ノ丸に上がりました 第一印象=広いです

此処には櫓もあったみたいですね

北方で脅威の少ない宇都宮氏と、南で常に脅威に晒される皆川氏の関係も、敵味方が日替わり状態となり、天正13年(1585)、皆川広照は北条氏直の求めに抗し切れず、北条軍の先鋒となって宇都宮城に攻め寄せました。
この戦いは結局和睦になり、宇都宮氏も渋々ながら北条氏の傘下に加わる事になりましたが、西方城は北条軍に占拠されて北条氏の城代が入っていた様で、この時に大きく拡充された可能性があります。

間に小郭を二つ挟んでいて(十分に大きいが)

その間の仕切りも強固です

この郭はその広さから本丸かと思いましたが、その手前の二ノ丸でした

その後、北条氏にとっての脅威が西に移ると城代の役割は皆川広照に付託された様で、かつての広照の造反に遺恨を持っていた宇都宮国綱は、3年後の天正16年(1588)に佐竹氏の援軍を得て大挙皆川城に攻めかかり、奪還しました。
以後、西方城の宇都宮氏と至近(700mほど)の真名子城の皆川氏の睨み合いは天正18年(1590)まで続きますが、秀吉の北条征伐で北条氏が滅ぶと、宇都宮氏は旧領を安堵され落ち着きました。
慶長2年(1597)、宇都宮氏は秀吉の命で突然改易されてしまいます。
宇都宮領には替わって会津から蒲生秀行が入って来ますが、西方城はこの時に廃城となった様です。

本丸虎口は土塁も高く、いっそう堅固にしてあります

本丸は土塁が取り巻いていますが、圧倒的な広さです

北側の眼下はゴルフ場になっていました

本丸から南ノ丸へ向かう虎口は急坂です。 こちら側の郭は梯郭になります

搦め手口の虎口脇にはこんな広さの郭も隠れています 北条氏照の滝山城に似てますね
この先には西ノ丸がありましたが、ゴルフ場造成で消滅したそうです
東に広大な関東平野を望む山地の先端の、比高150mほどの山の山頂部全体に梯郭に広い郭を重ねる西方城。
驚くほど大規模で立派な山城ですが、感心するよりも先に違和感を覚えます。
国境に在って、敵の動向を見張るこの手の城って、普通に考えるとコンパクトな尾根城になる筈です。
他の支城の分布や西方城を管理した宇都宮氏、皆川氏の規模から言っても、此処の籠る最大兵力って200人を越えないと思うのですが、どう見てもこの城は千人以上の規模で使う様に造られて(改造されて)います。
3~5万石の大名の居城のスペックなんですよね。

南ノ丸もやはり広大です

最後の東ノ丸へ向けて坂を下りて行きますが、階段状に小郭が続きます

一面朴ノ木の落ち葉で、通路が白く見えますね

朴葉は関西人にとっては旅館の朝食でしか見る機会が無いので、新鮮に映ります
山上の尾根には本丸を中心に幾つもの大きな郭が連郭で並び、郭の大きさも御殿が建つほどの居城仕様で造られています。
誰がこんな立派な城にしたの? …ですが、皆川広照はこんな守り切れない城は造りません。
宇都宮国綱なら? 可能ではあるでしょうが、戦国末期の宇都宮氏は平城の宇都宮城で上杉や北条の大軍を迎え撃つ事を諦めていて、詰め城だった北方の多気山城を居城化する事に勤しんでいる頃ですから、余力は無いし、そんな南進するほどの積極戦略は採り得ません。
そうすると、誰がやったか…と言うと、北条氏しかありませんね。

土塁に囲まれた“井戸郭” 土塁は何のため?


東ノ丸への虎口 こっちが大手だった様です

天正13年の宇都宮進攻で宇都宮氏は服従する形にはなっていますが、今後十分あり得る討伐戦に備えて、氏直の本陣としての整備が西方城に為されたのではないでしょうか?