栃木の城 児山城 登城日2018.1.20

城郭構造 輪郭式平城
天守構造 なし
築城主 児山朝定
築城年 建武年間(1334-1338)
主な城主 児山氏
廃城年 永禄元年(1558)
遺構 郭、土塁、堀
指定文化財 県指定史跡
所在地 栃木県下野市古山字本城
児山城は壬生城の北東8kmほどの距離にある城址で、中世の少し古い遺構がそのまま残っています。
築城年代は定かになっていませんが、鎌倉幕府が滅亡した建武年間に児山朝定によって築かれたものと推定されています。

児山朝定とは宇都宮氏の分家:多功宗朝の二男で、児山郷を分知されて児山城を築き、児山氏を名乗りました。
本家の多功氏の居城:多功城は児山城の南東4kmほどに有ります(さしたる遺構は残っていませんが)。


行き止まりに専用の駐車場が用意されています
永禄元年(1558)、上杉謙信の命により佐野氏が多功城に攻め寄せます。
児山氏の当主:児山兼朝は当然の事ながら、多功城の防戦に駆け付けます。
戦いは稀に見る激戦となり、佐野氏の当主:佐野豊綱が討ち取られた事で、佐野軍は退却して行きましたが、多功側の損害も甚大で、その中には児山兼朝も含まれていました。
兼朝には男子が無く、多くの家臣も失った児山氏は絶家となり、児山城も廃城になったそうです。



児山城址のある下野市一帯は栃木県でも最もフラットな地形が広がる田園地帯で、土地の高低差を利用した城は築けません。
児山城も最初は坂東武士の居館の特徴である、一条の狭い堀とその土砂を積み上げた掻き揚げ土塁に囲まれた方形の“館”からスタートしたものと思われます。
宇都宮氏の一族ですから、当時は強力な敵の攻撃に晒される事は考えられなかったのか、館跡の本丸には防戦を意識した工夫は見られず、一重の土塁に囲われた平坦な郭があるだけです。

シンプルな方形の城です 二ノ郭は築造途上だったのかも

主郭の虎口は土橋になってないから、水堀で木橋が架かっていたのでしょう

児山城に多功城の支城としての機能が求められたのは後の事で、時代が進むにつれ徐々に拡充されていったものと思われます。
こうした平城の拡充といえば、まず堀を広く深くして土塁を高くする事で、次には外側に新たに堀を掘って囲い、主郭を守る守備の郭を造ります。
こうして輪郭式に広がって行くのが平城の特徴ですが、児山城は二重目の堀を備えた時点で歴史が止まってしまった気がします。

土塁は2mほどの高さで巻いています

土塁の角の盛り上がりは何なのでしょう?

この後は実際の戦闘経験から、弱点を克服する形で土塁に横矢を掛けたり、井楼を上げたり…の工夫をして行くのですが、児山城はその前に城の使命を終えた訳ですね。
この後、関東の城は北条氏が手を加える場合が多いので、とても凝ったマニアックな縄張りを持つ城も少なくありません。
しかし児山城は、児山氏の菩提寺:華蔵寺の敷地で遺構が保存され、周囲も稲作適地のため大きく改変される機会が無かった事から、発展途上の城構造がそのままフリーズされた状態で残りました。



この城址もどうやら私有地の様です。 開放してくれてありがとうございます。
実際にそうゆう城址は珍しく、学術的な価値も高いので、栃木県は早い時期から県の史跡に指定して、保存と最小限の整備をしている訳です。
まぁ、城郭としての完成度は低く、余程のマニアックな者でない限り訪れて歩き回る者も居ないのでしょうが(^-^;