栃木の城  壬生城  登城日2018.1.20
 
イメージ 1
 
 別名      馬蹄城
 城郭構造  輪郭式平城
 築城主    壬生綱重
 築城年    文明年間(1469-1486)
 主な城主  壬生氏、日根野氏、阿部氏、鳥居氏 など
 廃城年    明治4年
 遺構      土塁、水堀
 所在地    栃木県下都賀郡壬生町本丸1
 
 
 
 さて、またオタク記事に戻って“城ある記”です。
 
  壬生城は戦国初期の文明年間にこの地を地盤とする壬生氏が築いた城です。
壬生氏とは壬生胤業を初代とする宇都宮氏の重臣のひとりですが、その出自には諸説あって、宇都宮氏の支族、下総千葉氏の一族、はたまた京の下級公家さんまでいろいろです。
壬生城が築かれた時には紛れもなく、宇都宮氏の家臣だった様です。
 
 
イメージ 2
壬生城址は本丸の跡が城址公園として整備されています
 
イメージ 3
二ノ丸跡には長塀と広い駐車場が整備され
 
イメージ 4
高麗門も復元されていますが…
 
 
 胤重の子の綱重の代になると、宇都宮氏の戦いで武功を挙げて行き、次第に家中に重きを成す存在になっていました。
 永正年間(1504-1520)に長年敵対していた西隣の鹿沼氏を独力で滅ぼすと、鹿沼領の支配権と日光の社領の管理をも認められ、壬生綱重は壬生城を子の綱房に任せて本拠を鹿沼城に移しました。
 
 主家の宇都宮氏は内紛の多い家で、下克上も多く、一族の中で、また重臣のパワーバランスの中で当主がコロコロ代わった家です。
詳細は宇都宮城の時に触れたいと思いますが、そんな重臣として、壬生氏も深く関与しています。
 
 大永6年(1526)、綱重の子の綱房は宇都宮市の一族で分家の芳賀高定が宗家を乗っ取ったのに協力して、重臣筆頭の地位を得ます。
 次にはその芳賀高定の追い落としを謀り、天文18年(1549)、周辺の那須氏や皆川氏の協力を得て、高定が合戦に出た隙に宇都宮城を占拠し、高定はやむなく居城の真岡城に退避します。
 
 
イメージ 5
僅かに遺っていた南面の土塁は近代の工法で整備され
 
イメージ 6
郭内は丸っきり洋風の公園です
 
イメージ 7
公民館や図書館の建物も洋風で、これは城址と言えるのか疑問です

 
 綱重は間髪置かず、芳賀氏系の没落した家から一族の子を召し出し、新たに宇都宮氏の当主に据えて、芳賀氏・壬生氏による共同統治の形を取ります。
当然、実権は壬生綱房の手にあり、乗っ取りですね。
 
 宇都宮城に入った綱房は壬生城に嫡男の綱雄を置き、鹿沼城には二男の周長を入れて体制を固めますが、6年後の弘治元年(1555)、反撃に出た芳賀高定により暗殺され、宇都宮城は奪還されてしまいます。
 
 壬生氏の跡を継いだ綱雄は壬生城に逼塞状態となり、南の北条氏方へと傾いて行きますが、やがて弟で鹿沼城を継いだ周長の手で暗殺された模様で、壬生城は嫡男の義雄が継ぎました。
 周長は宇都宮氏と融和して行く方針だった様で、また宇都宮氏の重臣に帰り咲いています。
 
 
イメージ 8
遺っていた土塁はなかなか迫力のあるモノだった様で、惜しい気持ちになりますが
 
イメージ 9
いざ土塁に登ってみると
 
イメージ 10
当時の姿を最大限残す工夫の跡を感じる事ができます
 
 
 天正7年(1579)、北条氏と皆川氏の支援を受けた義雄は鹿沼へ攻め入り、叔父の周長を討ち取って仇を討つとともに、鹿沼領も確保したので、壬生氏はまたひとつになりました。
 この頃の北条氏は小山氏の居城だった祇園城にエースの氏照が常駐していて、本格的に下野支配に乗り出していた時期ですね。
ちなみに皆川広照の妻は義雄の妹:鶴子です。
 
 この後義雄は居城を鹿沼城に移し、壬生城には城代を置いて、北条方の先兵として宇都宮氏と対峙しました。
 この頃の北条氏の『関東人数覚書』によると、壬生氏は4万5千石の所領で兵力は1,500と記されています。
これは周辺の氏族では、常陸佐竹氏の5,000、同小田氏の3,000、下野宇都宮氏3,000、安房里見氏3,000に次ぐ数で、下野皆川氏1,000よりも上位にあった様です。
 
イメージ 11
資料館のジオラマがその全貌を伝えて呉れますが、
 
イメージ 12
質実剛健な戦国の城の姿が浮かび上がって来ます
 
 
 天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐では、壬生義雄は義弟の皆川広照と共に小田原城に入城しましたが、いち早く寝返った広照に対し、義雄は降伏開城まで留まっており、直後に小田原で病死したそうです。
義雄には男子が無く、壬生氏は絶家となり所領は没収されました。
 
 徳川家康の関東入封後の壬生は結城秀康の領地になりますが、慶長5年(1600)には日根野吉明が、寛永13年(1634)には阿部忠明が、寛永16年には三浦正次が、元禄5年(1692)には松平輝貞(大河内)が、元禄8年(1695)には加藤明次がと、目まぐるしく城主が代わります。
 
 そして正徳2年(1712)、近江水口から鳥居忠英が移ってくると、この鳥居氏が明治維新まで8代続いて行くのです。
 慶応4年(1868)の戊辰戦争では壬生藩は官軍に付き、幕府軍が占拠した宇都宮城攻略の拠点となりました。
 
イメージ 13
やはり機能美と言うか、虚飾の贅肉の無い城は美しいものです
 
 
 以上の様に壬生城は壬生氏の居館から始まり、徐々に城として整備されて行ったものです。
 特に戦国末期には北の宇都宮氏、東の佐竹氏との闘いは激しく、壬生氏の支城であった壬生城は戦いに特化した強固な城であったと思われます。
 その為か、城址から察するに天守や櫓などの虚飾の構造物は一切無かった様です。
 
 江戸期の歴代大名も2~3万石の小藩が続いた為、城の変革は許されず、財政的にも維持するのがやっとだった事でしょう。