栃木の城  栃木城  登城日2018.1.20
 
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 城郭構造   輪郭式平城
 天守構造   なし
 築城主    皆川広照
 築城年    天正19年(1591)
 主な城主   皆川氏
 廃城年     慶長19年(1614)
 遺構       郭、土塁、堀
 指定文化財  市指定史跡
 所在地     栃木県栃木市城内町
 
 
 天正18年(1590)の小田原征伐で生き残りに成功した皆川広照が、山城の皆川城に替わる居城として築いた平城です。
 この時点での皆川氏の石高は1万5千石程度と想定されています(その割には頑張った感ハンパない…)が、広照はこれを機に、山がちな居城を捨てて、より街道と河川に近い栃木に移転を決め、輪郭式の平城を築きます。
 
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栃木での駐車場はネット情報から此処に停めました 利用者は少ないですが“警察署跡地”らしくて、中心部にあり、すべて徒歩で楽に廻る事ができました
 
 
 同時に広照は城下町の整備にも着手し、街道の整備と水運の為の掘割を巡らせ、近江から商人を呼び寄せて、後の“商都:栃木”の基盤を作りました。
 北関東の片田舎の小領主にしては凄い先見の明を感じるのですが、これには思い当たる節があります。
 
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まず真っ先に訪れた栃木城址 栃木という名前から、それなりの遺構を期待してると面食らってしまいます
 
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水堀は殆ど埋められ、石積みは近世のものです。
僅かに遺る土盛りは櫓台の跡か? 遺構と思えるのはこれだけです
 
 
 10年前の天正9年(1581)、破竹の勢いで東海、畿内を統一した織田信長に興味を持った広照は、まず徳川家康に接近して伝手を得て、安土の信長を表敬訪問したそうです。
 
 上等な駿馬3頭の献上を受けた信長は、まだ自身の勢力の及ばない北関東の国人の積極的な来訪をたいそう喜んで、馬7頭分の引出物を持たせて帰しますが、広照の帰路の安全確保を滝川一益に直接指示するほど上機嫌だったそうです。
 
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上部の広さを見る限り、土塁のほんの一部が遺ってるだけ…というか
 
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見下ろす景色はそんな感じです
 
 
 帰る途中の浜松では家康にも謝礼の訪問をし、今後の交流も約束してもらっていて、そんな背景があったから小田原では家康陣に駆け込み、すんなり受け入れられた訳ですね。
 
 この信長訪問で安土や畿内、東海の様子を見た広照には新鮮な驚きが有り、信長からも『これからの国造り』の有り方を聴かされて、大きな感銘を受けて帰国したのでしょうね。
 
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城域はそれなりの規模はあった様ですが、僅か19年の短命だった城
 
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現在は本丸の部分だけが城址公園として整備され
 
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遺っています
 
 
 その後、家康隷下の大名として小牧・長久手や関ヶ原に活躍した広照は3万5千石まで加増され、家康の六男:忠輝の養育を任されるまで信頼されて、栃木の城下は順調に発展しました。
 
 慶長8年(1603)、忠輝が元服し信濃川中島17万石で独立すると、広照は附家老を仰せつかり、信濃に同行して信濃飯山4万石が新たに加増され、計7万5千石を領すまでになります。
 
 
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雰囲気のある屋敷が隣にありましたが、堀を埋めた後に建った屋敷の様です
 
 しかし、家康にその容貌を嫌われていた…と言われる忠輝には粗暴な振舞いが多く、広度はたびたび諫言をするのですが、忠輝の素行は一向に改まらず、困り果てた広照は忠輝の行状を駿府の家康に訴える事にします。
 それを知った忠輝も駿府に駆け付け、逆に広照の政務の不届きを訴え対抗しました。
 
 
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こちらは少し離れた場所で見つけた屋敷ですが、帰農した皆川家臣の家みたいですね
 
 
 双方の言い分を聴いた上で家康が出した結論は、『皆川広照、附家老として不適格につき改易に処す!』でした。
 関ヶ原以前ならともかく、徳川政権が盤石な今、配下の武将に期待するのは戦働きではありません。
 不肖の息子を一人前にしてくれる事を期待したから預けた訳で、“どっちを取るんだ”との裁定を家康に求めた時点で、数多の大名の一人に過ぎない広照に勝ち目などありませんよね。
 
 改易後の広照は京都で剃髪し謹慎していましたが、大坂の陣に参陣した事で赦され、常陸で僅か1万石ながら大名に復帰しています。
 栃木の旧皆川領は天領になり、栃木城にも代官が入っていた様ですが、これを機に正式に廃城になった様です。
 
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 その後の栃木は天領や各藩の飛び地、旗本領などが細かく入り組んで、単一の武家による系統立った支配の元にはありませんでしたが、宝永2年(1705)になると将軍:家宣の側用人だった戸田忠利が足利、河内、都賀3郡に封ぜられて1万1千石の大名になり、明治維新まで続きました。
 藩名は最大領地の足利藩を用いましたが、陣屋は栃木に置かれ、栃木の殿様になりました。
 
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陣屋跡に建つと言われる裁判所 それを示す碑などは一切ありません
 
 
 当初、陣屋は栃木城の跡地に設けられましたが、天明9年(1789)には少し西の市街地に移転しています。
 栃木陣屋は現在の満福寺の南側から栃木地方裁判所の辺りに在ったと言われますが、市街化の波に飲み込まれて遺構はおろか石碑ひとつありません。
 
 栃木の人達にとって200年近くもの領主の痕跡が、何一つ残されないのは余程の事だと思うのですが…。
 
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此処に最近まで陣屋の通用門を使った古い家が有ったのですが、更地の分譲地になっていました。(石碑は満福寺の入り口を示すものです)
 
 
 幕末の元治元年(1864)に水戸藩で発生した天狗党の乱。
筑波山で旗上げし日光東照宮を目指した水戸藩の過激分子約千名は、周辺諸藩の鎮圧出兵を受けて日光行きを断念し、栃木の大平山に籠って、此処で半月余り滞在していました。
 
 その間に栃木の町に繰り出したメンバー達は商家に押し入り、金品の強奪や町民の惨殺など悪事の限りを尽くします。
 
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古い町並みは観光地としての再生事業が進んでいます
 
 これに治安出動し毅然と対処していた足利藩の栃木陣屋でした(商家の娘を殺した犯人を捕らえ、天狗党に賠償金400両を支払わせています)が、夜に天狗党総出で襲われ、栃木の町は放火されて237戸が焼失し、夥しい数の町民が惨殺されたと言います。
 
 こうなると藩兵も僅か数十人の小藩の陣屋ではどうする事もできないのですが、領民にしてみれば『年貢を払ってる領主が守ってくれなくて、何の殿様か!』…となります。
 
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川越でお馴染みの黒漆喰の蔵造り建物ですね
 
 
 藩の内乱なのに放置して他藩や庶民に迷惑を掛けた水戸藩と、適切な出兵で早期に潰してしまわなかった幕府に責任の大半があるのですが、やり場の無い憤りは言える相手にぶちまけるしか無かったんですね。
 
 哀しい事ですが、こうした苦難の記憶と同時に、足利藩栃木陣屋の記憶も、ついでに街を拓いた皆川広照の栃木城の記憶も消し去られたみたいに思えてなりません。
 
 
*その後の天狗党の動きは、中山道からの上洛を目指しますが、ようやく動き出した幕府の追討軍に追われた末、敦賀で投降し捕縛されます。
一連の天狗党騒動での自分勝手な乱暴狼藉による被害は甚大で、投降した千名弱のうち350人余りが斬首刑に処せられますが、追討軍の幕臣や諸藩の藩士はなおも報復を恐れて執行役になるのを嫌がりました。
実際に躊躇なく彼らの首を刎ねたのは、大半が志願してやって来た彦根藩士だったそうです。
 近年、天狗党を再評価する風潮の番組などがありますが、『天皇の元に民に仇なす夷敵を打ち払う…』などと大言壮語しながら、守るべき肝心の民を面白半分に殺戮するなど、鬼畜以下、外道の行いです。
ISとまったく同じで、評価に価する者ではありません。
 
 
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栃木を代表する塚田家の蔵屋敷 木材問屋の豪商で、ここで筏に組まれた木材は一昼夜掛けて川を下り、江戸川の木場に着いたそうです
 
 
 最期に栃木の観光名所“蔵の街”を訪ねて見ます。
“小江戸”、“小京都”、“関東の倉敷”を謳い文句に観光地整備を進めている様ですが、まだ古い建物と近代建築が混在していて、これから…といった感じですね。
 
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堀川では遊覧船もありましたが、船頭さん暇みたいでした(^-^;
 
 栃木の町は城下町としては大成しませんでしたが、皆川広照が撒いた商都の種は大きな実を結び、巴波川を使った水運の便は近郷の産物を江戸に運ぶ“回漕問屋”の町として発展し、維新の廃藩置県では下野を代表する町として栃木県の名に使われています。
 
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