栃木の城 皆川城 登城日2014.9.11

別名 法螺貝城
城郭構造 山城
築城主 皆川秀光
築城年 応永元年(1394)
主な城主 皆川氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 土塁、空堀
指定文化財 市指定史跡
所在地 栃木県栃木市皆川城内町
この城址に関しては写真データが残っていたので、当時の写真と記憶でアップします。

本丸跡に掲示されてる縄張り図 コンセプトとしては輪郭式になるのかな?
皆川城は皆川氏の居城で、螺旋状にできた山腹の郭の特異な形状から『法螺貝城』の別名があります。
正確には螺旋状ではなく、マヤ文明のピラミッドみたいに階段状なんですけど、昔の人にはパッと見の印象で螺旋に見えたんでしょうね(^-^;

こちらは栃木県立博物館にある模型です 本当にこんな城が有るの? と思えば…

実はこの城址、東北自動車道を宇都宮方面に走っていると、岩舟JCT~栃木ICの間で、左手にハッキリ見えて、印象的な形が記憶に残っています。
ただ、農業の為に土地改造した痕…という解釈で、まさか城址だとは思いませんでした。
山の斜面に果樹や養蚕の為に桑の木を植える際、収穫作業とその後の運搬の利便性を考えて、斜面を階段状にするのは農業ではよく使う手法だからです。
明治から昭和にかけての上野、下野は紬の産地でもあり、山沿いには沢山の養蚕農家があり、広い桑畑が拡がっていた事でしょうから…。
実際に登城して見て、この郭の形状になった秘密にも迫ってみたいと思います。

山麓の市役所の支所(お屋敷跡)に駐車して、竪堀の堀底道を登って行きます。左側は竪土塁ですね。


ここは中腹の広めの郭ですが、麓から見る以上に奥行きの広さがありますね
皆川城が築城された時期については二つの説があり、寛喜年間(1229~1232)に皆川宗員によって築かれた説と、応永元年(1394)に皆川秀光による説がありますが、足利三代将軍:義満の頃には築城されていた歴史のある城です。
この頃の日本の国情はと言えば、足利幕府は肥大化強大化した守護大名の勢力の削ぎ落しに躍起になっている頃で、全国各地で争乱が激しい頃です(室町時代は全てそうですが…)。
北関東でも鎌倉公方の足利満兼がその機に乗じて蠢動していた時期ですね。

下の郭を見下ろしても、広さが有りますね。 桑の木も植わってないし(^-^;
上下の郭の先端を直線で繋ぐと、この山の斜度になりますが、思いの外緩いのです。


大きな空堀に隔てられて独立した外郭を成している様です こちらの整備も待たれますね
皆川氏とは、北関東に広く分布する藤原秀郷を祖とする氏族のひとつで、同族と言われる結城氏、小山氏と深い同盟関係を結んで、この地に勢力を維持していました。
戦国時代に入ると、古河公方の勢力、北の鹿沼方面から勢力を延ばしてきた宇都宮氏、さらには後北条氏の北上にも晒される事となり、いずれも自主自立を賭けて争いますが、最終的にはこうした強大勢力の、その時々のバランスの中で従属と離反を繰り返す『表裏比興』の生き方を余儀なくされました。

山頂は削平されて200坪ばかりの平場になっています 現代の物見櫓がありました



裏側(北方向)も同様に郭が重なります
天正18年(1590)の小田原征伐の断面では北条氏の傘下にあり、当主の皆川広照は主力を率いて小田原城に籠城していました。
留守の皆川城は上杉景勝の軍勢に囲まれ、徹底抗戦する事なく4月8日に降伏開城したそうです。
*私の認識ではこの時期の上杉景勝は武蔵の鉢形城を囲んでいる筈なのですが…。全軍1万5千で囲んでいた訳ではなく、一部はこうして諸城の攻略に動いていた証しですね。

敵対していた宇都宮領はこの方向か… 仮想敵が縄張りの前提です

訪問時は小雨模様でガスってますが、南東には東北道が走っていて、その向こうには栃木の街が広がっています。
一方、小田原に籠城していた皆川広照は、同じ時期に城を抜け出して徳川家康の陣に駆け込み、北条方の“寝返り第一号”となりました。
広照は家康の執成しで見事に所領を安堵されていますから、皆川城の留守居も連繋して無抵抗で開城したのでしょうね。
翌年、広照は栃木に新たに平城を築城し、本拠を移したため、皆川城はこれで廃城となりました。

水の手には現在も水が湧いていました
次は栃木城を訪ねてみます