栃木の城 赤見城 登城日2018.1.20

別名 町屋城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 なし
築城主 足利俊綱
築城年 安元元年(1175)
主な改修者 戸賀崎義宗
主な城主 藤姓足利氏、戸賀崎氏、赤見氏、佐野氏
廃城年 慶長19年(1614)
遺構 郭、土塁、堀
指定文化財 市指定史跡
所在地 栃木県佐野市赤見町町屋
赤見城は安元元年(1175)に足利俊綱によって築かれたと言います。
足利俊綱とは藤姓足利氏の当主で、足利城を本拠にしていましたが、この年に家督を子の忠綱に譲り、三年後から赤見城に移りました。
いわゆる隠居城ですね。


保育園の入り口の横に城址碑と土塁に登って行く階段がありました

さっそく土塁上へ登って行きます
藤姓足利氏はこの後の治承5年(1181)に源頼朝の挙兵に応じず、中立の立場を採った為に攻められ、俊綱の首を差し出して降伏しました。
一説によれば家臣の桐生六郎が頼朝に内応して俊綱を討った…とも言われます。

土塁上は何不自由なく散策できる様に綺麗に整備されています

本丸内部は保育園の園庭になっています 休園日で子供たちの声が聞こえないのはちょっと寂しい(^-^;

土塁の北東隅 広くも高くもなっていないので、櫓などは此処には無かった様ですね
赤見城はこれで一旦廃城となりますが、建久元年(1190)には源姓足利氏の一族の戸賀崎義宗に与えられ、義宗が城を再興して居城としました。
この戸賀崎義宗という人、祖父の足利義清は足利始祖の義康の長男でしたが、庶子であったため叔父:新田義重の猶子になります。
源平合戦では木曽義仲軍に属すなど不運も重なって、不遇な中で足利領の三河に雌伏していますが、二代後のつまり義宗の長兄の実国は三河で仁木氏を、同じく次兄の義季は細川氏を立ち上げています。
後にはともに室町幕府の超有力な守護大名となりますから、名門の一族なのです。
土塁の北側には堀を挟んで“北の丸”がありました

北西の隅には祠がありますが… 静かに歩いて通り過ぎないと、今にも壊れそうです

しかし戸賀崎氏はあまりパッとしなかった様で、子孫は戦国時代になると地名の“赤見氏”に改姓して、東に隣接する“佐野氏”の傘下に組み込まれています。
永禄2年(1559)、赤見伊賀守のとき、佐野氏に背いた(上杉謙信に内応か?)として佐野泰綱に攻められ、常陸へと逃れたそうです。
その後は佐野氏の直接支配する支城となりますが、平城の便利さと堅固さを兼ね備えた赤見城は、足利方面を抑える重要な城として機能し続け、江戸時代初期の佐野氏の改易まで存続していました。

西側の二重土塁 平城で同じ高さの土塁が水堀を挟んで並列する構造は珍しいですね


登り口にあった碑板で縄張りを確認します東は出流川までの広大な城地で、城下も取り込んでいたから別名:町屋城と呼ばれました。
北西の守りが薄いのは、沢沼地だったのでこちらからの進攻は不可能だったのだと思います。
現在の赤見城址は本丸だけが遺り、その郭内は“赤見城保育園”になっています。
南側の土塁は崩されて、虎口も喪失していますが、他の三方の土塁はシッカリ保存されていて、現状の市街化状況と城の知名度を勘案すると、奇跡の様に思えます。
たぶん、保育園の前は寺社が鎮座してたのかな?
特に北から西側にかけての土塁と水堀は二重に巡っており、あまり例のない此処だけの現存遺構として見応えがあります。
守りを強化しようと思えば、無条件に居館とは別に詰め城の山城を選択してた時代に、居館を兼ねた平城で、堅固にするには…といった創意工夫の歴史を今に伝えてる気がしました。

南西は大手側になるので、堀幅が広くなっていますね


現代の埋門がありましたが…草葉の搬出メンテナンス用でしょうかね?
赤見城址へ行くには、電車の駅は遠く、バスも2時間に1本程度の密度なので、基本は車になります。
しかし近辺に駐車場は無く、『違法駐車厳禁!』の看板がたくさん有りました(^-^;
土日の休園日には園の駐車場に停めても良いそうですが、平日には500mほど東にある市役所の支所を利用させて貰うのが無難ですね。