いよいよ最終回です。
報国寺を出て西へ向かい、鎌倉駅を目指します。
金沢街道へは出ずに、滑川の南側に並行して走っている鎌倉らしい雰囲気の小路があるので、散策しながら行きます。
報国寺のある宅間谷の西隣の谷を“犬懸谷”と呼び、犬懸上杉家の邸は此処にありました。

犬懸谷の西側の谷は“釈迦堂谷”と呼ばれます。
此処を登りきった所に“釈迦堂切通し”が有るのですが、名前の由来は、北条泰時が父:義時の菩提を弔う“釈迦堂”を此処に建立した事に依ります。

今歩いている道も、その時に整備された道だそうで、釈迦堂の前に田楽師が住んでいた事から“田楽辻子のみち”と呼ばれ、報国寺から大蔵幕府の南で大御堂橋を渡り、義時の法華堂へと繋がっています。
金沢街道に出て若宮大路の北の端、鶴岡八幡宮の入り口までやって来ました。
通りの東側の一帯は、北条執権時代の幕府の機能“若宮大路幕府”が在った場所ですが、此処の一角のビルに発掘された地下の遺構を展示している場所が有ります。
土産物屋などの店舗が入る商業ビル『M`sArk』がその場所で、店内に入って行くとガラス張りの床の場所があり、覗いて見ると2mほどの深さに発掘された柱穴や木材の建材などが発掘時の状態で保存・展示されています。

しかし、800年ほどの経過で、これだけの土砂が堆積してしまうんですね。
八幡宮の“鎌倉国宝館”は休館中でしたが、鎌倉にはもう一ヶ所の歴史博物館があるそうです。
鎌倉駅にも近い、源氏山の南麓にある『鎌倉歴史文化交流館』がそれで、3日間歩き回って見聞した事を整理・補完する意味でも、やはり資料館の訪問は欠かせませんから、最後に訪ねて見ます。

紹介が遅れましたが、若宮大路は大きく改装され、中央分離帯の部分がずっと歩道になっています
二の鳥居で若宮大路を横断し、小町通と線路を横切ってまっすぐ西へと進んで行くと、道は石畳になって博物館が見えてきました。
まだ新しい建物ですが、駐車場に車は無く、玄関辺りにも観光客の姿はなく、ヒッソリとしています。
え? 日曜日なのに? …と、玄関に近づいて見ると、展示物の入れ替えの為に暫く休館中の張り紙がありました。

展示方法がユニークだそうで、楽しみにしていましたが…
今回は資料館に恵まれませんでした。
落胆して駅に向かい、ホントの最期の目的地:大船の常楽寺へ移動します。
常楽寺には木曽義高の墓があります。

常楽寺は北条泰時の菩提寺で、この山門も泰時らしい感じがしますね
木曽義高とは木曽義仲の嫡男ですが、義仲は頼朝の叔父:源義賢の嫡男で、頼朝とは従弟同士でした。
しかし義賢と頼朝の父:義朝は保元の乱で争い、頼朝の兄:義平に館を襲撃された義賢は討死にしてしまいます。
遺児の義仲は武蔵の豪族:畠山重能の計らいで信濃木曽谷の豪族:中原兼遠のもとに匿われて育ち、成人すると木曽義仲を名乗りました。

常楽寺境内の北のはずれにある義高の墓 花持ってくればよかった…。

供養はちゃんとされてる様ですね
以仁王の平家追討の綸旨は源行家(新宮十郎)の手によって木曽谷にも運ばれ、独自に旗上げした義仲はやがて頼朝の勢力と対峙する局面を迎えます。
平家討滅前に源氏同士での争いは避けたい義仲は頼朝と交渉し、嫡男の義高と頼朝の娘:大姫とを娶せる事で互いの棲み分けを図り、義高を鎌倉に預けます。
要するに人質なのですが、6歳の大姫は11歳の義高にすぐに馴染んで兄の様に慕い、また政子も品が良く利発な義高をとても気に入った様です。

大河ドラマ『義経』より 義高と大姫 実際は義高が5歳年上の11歳です
ところが、義仲が平氏を追って入京し、義仲軍の軍紀の乱れで京の治安が荒れると、朝廷は頼朝に義仲の討伐を求めてきます。
このままでは朝廷の信頼は失われ、平家がまたも力づく危険があるので、頼朝は弟の範頼、義経に兵を授けて上京させますが、近江の瀬田で合戦になると義仲軍が敗れ、討ち取られてしまいます。
そうなると義高の立場は微妙です。
頼朝に義高を娘婿として手元で優遇し、信濃源氏の統領として与党の武将に育て上げる度量が有れば良かったのですが、やはり“危険性”ばかりに眼が向いた様で、抹殺を企図します。

大河ドラマ『義経』より 大姫の懸命な祈りも叶わず、義高は頼朝の命で斬首されてしまいました
そんな雰囲気を察した大姫は、義高を侍女に変装させて館を抜け出すと、用意していた馬に乗せて逃がしてしまいます。
しかし、こんな段取りの一切を6歳の娘が出来る筈も無いので、おそらくは政子が準備したと見るのが正しいでしょうね。
義高の脱走は翌日の夕刻に発覚し、頼朝は直ちに追捕の兵を差し向けます。
この時に頼朝がどの様な指示をしたかは判りませんが、鎌倉街道の上道(相当)を北上していた(武蔵国比企郡の畠山重能を頼るはずだった…と言われます)義高は、5日後に武蔵国入間郡で御家人:堀親家の郎党の藤内光澄に捕まり、入間河原で直ちに斬首されました。
一介の武士に判断権限は無いので、おそらく『見つけ次第に討ち取れ!』が指示だったんでしょうね。

義高が捕まり斬首された入間川の河原(埼玉県狭山市入間川)
鎌倉からは約80km、比企郡の畠山館まではあと20kmですが、まだ地理感もあやふやな12歳の若様には苦難の逃避行だった事でしょう
義高の首は鎌倉へと運ばれ、頼朝は安堵するのですが、ショックを受けた大姫は悲嘆のあまり病床に伏してしまいます。
娘の衰弱ぶりを見かねた政子は頼朝に激しく詰め寄り、その非情さ冷酷さを厳しくなじります。
政子にとって『この人の限界、この人ではダメだわ…』と強く感じた最初の出来事かも知れませんね。
妻子の怒りの凄まじさに困った頼朝は、『義高を捕らえよとは言ったが、斬首は出過ぎた行為』という事にして、藤内光澄を斬首して晒します…。
『またバカな事を!そういう事ではないだろ!』と思いつつも、政子は木曽から義高について来ていた家人達(政子の脱走工作を手伝った)をお構いなしとし、御家人として取り立てる事を要求して頼朝に呑ませました。
しかし、そうした事も大姫の心の傷を癒すには至らず、成人の後も頼朝の求め(縁談)に応じる事はなく、遂に20歳で早世しました。

斬首された地には清水神社が祀られています

常楽寺から大船駅に移動しました。
あとは電車に乗って帰るだけですが、鎌倉を3日間掛けてつぶさに歩いて、見た事、感じた事をまとめて見ます。

初めての武家の都で、“要塞都市”と言われた鎌倉は、確かに防御によく考えられた立地だと思います。
発想は大陸の都の長安や北京にあるのは明確で、長大な方形の城壁に代わるモノが三方を囲む山塊であり、切岸だった訳ですね。
しかしいかにも古い発想で、盾を固めれば鉾はより鋭く強化され、鎌倉は攻められる度に陥落していますね。
この事から正々堂々の従来の合戦の作法は廃れて、弱い所を衝く戦法が主流になって行くキッカケになったと言えなくもありません。
また、広大な単郭と一重の壁という城の概念も、平時と戦時の区分け→複数の郭と多重の壁→輪郭→梯郭…という風に、変化して行く端緒となった気がします。

蔵書から『鎌倉復元イラスト』
また、何ともやるせないのが鎌倉に集った権力者とその取り巻き衆の発想で、源頼朝から室町幕府の鎌倉公方まで同じ事の繰り返しで、何も変わっていない事に気付きます。
つまり、天皇なり将軍なりの権威は尊ぶ振りをするものの、御家人の惣領も、分家も、執事から郎党に至るまで誰もが自らの力の扶植を考え、上位に取って代わる事を生甲斐としていた時代…という事ですね。
武器である弓矢刀槍が管理されない時代、個人の欲望や怨恨は簡単に戦闘へと繋がり、悲劇と恨みの連鎖が延々と続く訳です。

大船の観音様は鎌倉で繰り返された権力の簒奪と殺戮の犠牲者たちの霊を慈愛をもって慰めてくれてるのでしょうか?
現在の日本は大量に殺傷できる武器は一応は管理され、誰もが手にできるモノではありませんが、現代人の理性で当時の環境であったとしたら、果たしてどうなるのか…。
電車のシートに座って眠気とともにそんな事も考えながら、帰途につきました。
古都鎌倉を歩く 完