日本200名城 №167 新宮城(和歌山県) 登城日2018.1.5
 
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 別名       丹鶴城・沖見城
 城郭構造   平山城
 天守構造   3層5階(非現存=実在不明)
 築城主     浅野忠吉
 築城年     元和4年(1618)
 主な改修者 水野重央 水野重上
 主な城主   浅野氏、水野氏
 廃城年     明治6年(1873)
 遺構       天守台、石垣
 文化財指定 国の史跡
 所在地     和歌山県新宮市新宮字堀内
 
 
 はるばる新宮まで来て、お宮参りだけで帰るのも芸が無いので、シッカリお城歩きもして行きます。
 新宮は熊野詣の要地だけでなく、山が海辺まで迫る紀伊半島にあっては、まとまった耕地がある希少な土地で、新宮川の水運を利用して紀伊山地の産物が集まる集積地でもあります。
 
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本丸から見下ろす新宮川と背後の紀伊山地
 
 モノとヒトが集まれば利権が生まれ、豪族が育つ土壌になる訳で、新宮の場合は熊野別当(熊野三山を管理する公職)を任されていた新宮氏が平安~鎌倉期を統治していた様です。
 
 新宮城が有る丹鶴山には熊野別当の別邸があり、天皇や公家を警護してたびたび訪れていた源為義(頼朝の祖父)は別当の娘と良い仲になり、一女一男をもうけますが、その丹鶴姫がこの別邸に住んだ事から、丹鶴山と呼ばれる様になったそうです。
 
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大河ドラマ『清盛』より 源為義 落ち目な河内源氏の統領の苦労を演じていましたが、やる事はちゃんとやってますね(^-^;
 
 
 男子は行家と名付けられ、為義には十番目の男子だったので、新宮十郎行家と名乗りました。
後に以仁王の綸旨を持って諸国の源氏を訪ね歩き、平家追討の旗上げを促した源行家その人ですね。
 
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麓から見上げる鐘ノ丸 切り込み接ぎの高石垣に覆われています
 
 室町~戦国期には堀内氏が新宮氏に取って代わっています。
堀内氏は熊野水軍の長でもあった様ですから、世の乱れに乗じた下克上が有ったのかも知れませんね。
 
 堀内氏は他の地に平城(堀内新宮城)を築いたので、丹鶴山は使っていない様です。
 戦国末期の当主:堀内阿波守氏善は独自勢力として、東の北畠氏などと勢力争いをしていましたが、織田信長が水軍を重用する様になると九鬼氏と共に傘下に加わっています。
 
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正保城絵図ですね
 
 信長が本能寺に斃れ、秀吉が遺領を継ぐと抵抗の姿勢も見せますが、紀伊各地の一揆の討滅に加勢して、新宮領を加増安堵されていますから、方針転換して傘下に入った様ですね。
 
 その後の紀伊は豊臣秀長の領地になっていますから、氏善は秀吉の直臣ながら、秀長の与力の国人領主という位置付けだったのではないかと想像します。
 
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城門は枡形になっていますが、門の痕跡が見つからないのは気になります
 
 
 関ヶ原の戦で西軍に付いた氏善は領地を没収されるも一命は助けられ、加藤清正に仕官して熊本に移りました。
 代わって紀伊に入って来たのは浅野幸長で、和歌山を本拠にした幸長は家老で一族の浅野忠吉(父:長政の従弟)に2万8千石を与えて新宮を統治させます。
 
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高石垣は布積みでキレイに整えられています
 
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またやってるし(^-^;
 
 忠吉は新宮川の河口に面し、城下を見下ろす絶好のロケーションの丹鶴山に眼を付け、此処にあった寺社を移転させて、第一次の新宮城を築城して支配拠点としましたが、“元和の一国一城令(1615)”により破却させられました。
 
 大坂の陣が終わった元和4年(1818)、幕府は統治と地域性を踏まえて新宮への再築城を認めて、忠吉は君命により廃城となっていた丹鶴山に再築城を始めます。
 
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松ノ丸から鐘の丸へ 石垣がかなり傷んでいます
 
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角石がはみ出したまま放置されています 崩れるよ!
 
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石段も荒れています
 
 
 そして、新城がほぼ出来上がった1年後、浅野家は広島へ転封となってしまい、後には徳川家康の十男:頼宜が入って来て、紀伊徳川家が設立されます。
 徳川家の体制で新宮の統治を担ったのは、幕府から派遣された附家老の水野重央で、遠江浜松藩主(3万5千石)からの転身です。
 
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こちらは搦め手の虎口 掃除しなきゃ…
 
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出丸は綺麗に遺っています 何の用途だろう?
 
 
 重央も浅野家の築城を継承しますが、城域の拡大や総石垣化などを追加したため、完成は孫の3代:重上の寛文7年(1667)までズレ込んでいます。
   完成時の天守台には3層5階の天守が建っていたという説もありますが、正保城絵図にはその姿が描かれていないので、可能性は薄いかも知れません。
 
 
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本丸の虎口は綺麗です
 
 丹鶴山上には本丸、鐘ノ丸、松ノ丸の郭が連郭で続き、本丸の北側には独立した出丸が付属され、現在もその姿を良く遺しています。
 麓には西側に常御殿と思われる二ノ丸があり、その外を水堀で仕切られていた様で、こちらが大手口だった模様です。
 
 北側の新宮川沿いには“水の手”と呼ばれる大規模な船着き場が設けられていて、此処に名産の北山杉や備長炭などが集まり、江戸や大阪へと出荷されていたのだと思われます。
 
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船着き場の跡ですね
 
 その後、江戸時代を通じて徳川家~水野家の支配体制に変化はなく、明治6年(1873)の廃城令で新宮城は解体破却されました。
 城域は民間に払い下げられて、昭和27年には鐘ノ丸跡に旅館が開業し、昭和54年まで営業していたそうです。
 
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旅館へは専用のケーブルカーで登ってた様で、レールの跡がありました
 
 その翌年、旅館の廃業を以って城域は新宮市が買い取り、城址公園の整備が始まった様ですが、まだまだ旅館の痕跡が残っていますね。
 新宮市は天守の復元を目指しているそうですが、実在を示す資料が無いのは難しいですね。
 
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丹鶴姫の碑もありますね
 
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天守台からは熊野灘の大海原が望めます
 
 その前に、各城門や大手口など絵図に遺る遺構の復元が手付かずなので、続日本100名城に指定されたこの機会に、地に足を付けた復元計画を練り直して欲しいものです。