3日目の朝は六浦からスタートします。

早朝の六浦駅前 3日目は鎌倉を横断します
六浦とは鎌倉の東隣りの横浜市金沢区六浦で、平塚からは東海道線を大船で乗り換え、横須賀線の逗子駅で京急逗子線に乗り換えて2駅の道のりでした。
この六浦から鎌倉の若宮へと続く道を“金沢街道”と言い、朝夷奈の山を越える入り口を“朝夷奈口”と呼んでいました。
その峠道にあるのが“朝夷奈切通し”です。


六浦は埋め立てが進んで、海岸はずっと沖に離れて、田畑や市街地が広がる内陸の平坦地ですが、当時は東京湾の入江が奥深く入り込んでいて、波の穏やかな良港でした。
鎌倉へと運ばれる物資の多くは、此処で陸揚げされて、金沢街道で鎌倉へと運ばれていったそうです。

30分ばかり歩いて、山が近付いて来るころ朝夷奈入り口がありました

当時の鎌倉の最盛期(鎌倉時代中期)の人口は10万人程度と言われる研究データがあります。
現在の鎌倉市の人口は17万人あまりで、これには腰越、大船、玉縄など、郭外の人口も含まれますから、郭内だけで比べたら現在とほぼ同じ人口が居たと想定されます。

ここが入り口ですね

上が県道の高架になっていますが、道幅ひろい! 自動車が走れる様に改造したか?
この人口を養うには膨大な生活物資が必要で、例えば主食の米ひとつ取っても、一人が2~3合/日消費すると、毎日75トンもの量になります。
米俵2俵を馬の背に積んで運ぶと、625頭の馬が必要なのです。

おっと! まだ下の方だけど、見事な切通しです

やはり、広い道幅で登って行きます。 だいぶ改変されてるのかな?

三叉路に来ました 右は切通し 左は熊野神社です

熊野神社へ寄り道 この道は車は入れません


耕地がほとんど無い鎌倉の自給率はせいぜい2割ほどでしょうから、米麦菜魚から薪炭まで、連日大量の物資が運び込まれていた事でしょう。
これまで7口のうち6口まで見てきて、もっとも不思議に思ってたのがその物流で、この大量の物資をあの細く険しい山道でどう捌いていたのか?… でした。
最後に訪ねたこの朝夷奈口が、その物流をほとんど一手に担っていた…。 他の虎口は戦略上最低限の開発にとどめ、防衛力を担保していたという事なんでしょうね。

三叉路に戻って来て 今度は切通しへ登って行きます

すぐに切通しが見えてますが、この道は… とても車が通れる道ではありません

と、ゆう事は 昔からこの道幅?


摩崖仏の道祖神?
では何故、鎌倉の湊が六浦なのかという必然性ですが、鎌倉も前が浜の海沿いの土地で、由比ヶ浜東南の和賀江島には湊の痕跡もあるそうです。
しかし由比ヶ浜に現在サーファーが集っている様に、こちらは外海で波が高く、接岸した船が大きく上下する中での荷役作業は困難を伴いますし、船の損傷も懸念されます。
ですから、和賀江島の湊は唐船などの大型船が主体に使い、主に木材の建築資材の搬入に使われた様で、現在も“材木座”の地名が残っています。
鎌倉の生活物資の多くが、上総、下総から調達されていた背景には、こうした水運の環境が大きく影響していたのですね。

下りの道は岩盤剥き出し 泥岩だから滑ります

荷物を背負った馬が楽々離合できる道幅ですね

道路わきを流れる水が岩を削って、天然の側溝になっています “歴史”ですね

鎌倉側の入り口まで下りてきました 結局ここまで誰にも遭わず、独り占めでした(^-^;
滝が有って、きれいな紅葉です
朝夷奈の坂を下りきると“太刀川”沿いに削平された土地が現れだし、この先で集落になって県道と合流するのですが、この辺りに居館を構えていたのが上総広常です。
朝夷奈口を守る役目を帯びていたのが広常…かとも思いましたが、朝夷奈口が街道として本格的に整備されたのは3代執権:北条泰時の頃ですから、アバウトに領地に近い東側に陣取った感じでしょうか?

上総広常邸址(推定地)
上総広常は坂東平氏のひとつで、上下総に広大な所領を持つ国主格の豪族で、旗上げ当初の頼朝の配下ではダントツ最大の勢力でした。
遡ること三十数年前、頼朝の父:義朝は房総に居ました。
この時に源氏の御曹司:義朝に従い、庇護していたのが上総氏先代の常澄で、広常にも当然その記憶はあった事でしょう。

頼朝の陣に初参陣した広常は、自分からすれば雑魚とも思える家臣ばかり引き連れた若い頼朝が、真に将たる器なのか…、その胆力を試してやろうと、わざと尊大に振舞って頼朝を激怒させます。
『お前の様な奴の助けは要らん! すぐに戻ってワシと戦う準備をせい! 帰れ!』
この反応で胆の座った統領である事を認めた広常は、すぐに謝って陣に加わりましたが、他意は無いとは言え、頼朝にはタブーな行いで、源氏の世になるとすぐに粛清されてしまいました。

景時が血に汚れた太刀を洗ったという“太刀川”の流れ
吾妻鑑によれば、近くに邸があった梶原景時と天野遠景が頼朝の命を受けて上総邸を訪れ、三人で双六に興じる中で隙を見て刺殺したのだそうですが、この時に嫡男:能常も自害してる事から、手薄を狙った大規模な襲撃戦と見るべきだと思います。
川沿いにさらに下って行くと、谷幅は広がり民家も建て込んできます。
川の名前も滑川になりますが、この川の南岸に大江広元邸がありました。
しかし現在は石碑が残るのみで、さしたる遺構は無い様です。

対岸には“明王院”という茅葺の洒落たお寺があり、京から4代将軍に招かれた藤原頼経が開いた寺だそうですが、此処はたぶん梶原景時邸址ですね。

明王院 に入ってみようとしたら、 境内撮影禁止だそうです
さらに西へ進んで行くと、地名も十二所から浄明寺に変わります。
“その7”で紹介しましたが、此処には浄妙寺という足利氏の氏寺があって、その周辺は足利義兼の初入府以来、足利一族の邸が立ち並ぶ場所でした。

泉水橋の交差点を過ぎたすぐ右手の医院の脇には“足利公方邸址”の石碑が建っています。
室町時代の話になりますが、幕府は目の届きにくい関東・東北の抑えとして、幕府の支所の“鎌倉府”を置き、その長官には足利尊氏の二男:基氏があたり、代々その子孫が東国を統治していきます。

足利公方邸あたりを少し高い位置から俯瞰してみました
室町幕府鎌倉府長官は“鎌倉公方”と呼ばれ、その公方が住んだ邸が此処なんですね。
鎌倉幕府の若宮御所からは2kmあまり東の立地なので、ちょっと奥まって不便な気もしますが、政庁機能も此処にあって、大規模な邸宅が建っていた事でしょう。
鎌倉公方を補佐する役割が関東管領です。
管領職は足利家とは濃い血縁で繋がった上杉氏が代々担います。
上杉一族でも宗家の山内家や扇ガ谷家は西の方に邸がありましたが、宅間家、犬懸家などはこの近くに邸を構えていて、次に訪ねるのはその両家が菩提寺にしていた報国寺です。

昨日、名越切通しに向かう際には門前を素通りしましたが、今日はちゃんと入って見ます。
報国寺は臨済宗建長寺派の寺院で、創建者は足利家時(尊氏の祖父)とも上杉重兼(宅間家の祖)とも言われています。
寺のある谷間を宅間谷と呼ぶし、上杉家が管理する寺院で間違いないでしょうが、非公開ながら足利家時の墓は此処にあるそうです。
家時の死に方(北条氏に謀反の疑いを掛けられ、自害して家を守った)からして、足利の寺に葬る事が憚られたのかな?

やぐらが有りますが非公開で近付けません 右の墓が家時か?

この寺は裏庭が竹庭になっていて、天高く伸びた孟宗竹が幻想的な空間を創る“竹の寺”として人気があり、参拝客は多めです。
しかし大型バスは入れないので、一気にごった返す様なシーンは無く、幽玄な世界に浸る事ができました。
拝観料:200円とは別に、500円出せば竹庭の亭でゆっくり抹茶(干菓子つき)をいただけます。

竹庭の入り口

見上げるアングルの景色が秀逸ですね

本堂の前には古い密集した石塔群があり、上杉禅秀とその一族を供養した卒塔婆が立っていました。
上杉禅秀とは犬懸上杉家の当主:上杉氏憲の法名で、関東管領職に就き公方を補佐していましたが、ある評定で公方の足利持氏と対立して、管領を更迭されてしまいます。
後任には山内上杉家の憲基が補任されますが、その時の犬懸家は宗家の山内家を凌ぐ勢いが有り、関東管領も両家が交互に出す状態でした。

この処置を不満に思った氏憲は、娘婿である甲斐の武田信満ら縁者の勢力を結集して、公方の持氏に対し謀反を起こします(上杉禅秀の乱)。
一度は公方が逃走し、鎌倉を掌握した氏憲でしたが、事変はすぐに京の幕府に伝わり、将軍:義持が氏憲追討を命じて、今川、小笠原、宇都宮、佐竹といった守護大名の兵が攻め込むと、氏憲は討ち取られて乱はあっけなく終息します。

武田信満は自領の甲斐へと逃れますが、討手に追い付かれて領内都留郡の天目山で自刃しました。
これで犬懸家は事実上滅亡し、この後の関東管領は山内家の当主が代々世襲して行く事となりました。

次はいよいよ最終回、鎌倉で落穂ひろいをして大船で打ち止めします。
つづく
鎌倉編も年内完結を目指していましたが、時間切れです(^-^;
本年も一年間駄ブログにお付き合い戴き有難うございました。
来年の皆様の歴史探訪がより充実したものになります様、祈念致します。
良い年をお迎えください。