陽も傾いてきましたが、これから鎌倉市街へと入って行きます。

次の目的地は日蓮宗の寺院:妙本寺で、比企能員のかつての屋敷跡であり、菩提寺となっています。
比企能員とは、比企尼の養子となって比企氏当主を継承した人で、“甥”と言われていますが、その出自はよく判っていません。
比企尼は武蔵の豪族:比企掃部丞遠宗の妻で、頼朝の幼少期の乳母をしていた事から、家族総出で流人となった頼朝を20年もの間、物心両面から支えていた人です。
そんな背景があるので、鎌倉開幕後も頼朝は比企氏を頼りにして、上級の御家人として厚遇していました。

総門 日蓮宗の寺は空気感が温かい感じですね

山門 比企氏の家紋は笹竜胆?
しかし、当主の遠宗は頼朝旗上げ前には亡くなっていた様で、男子の居なかった比企尼は、甥の能員を養子に迎え当主にしていました。
能員がもともと比企氏の家系に繋がる人なのかは不明で、系図を見る限りはその名前は見つかりません。
可能性としては比企尼の実家の一族という目もありますが、比企尼自体がその本名さえ判っていない謎の人なので、どの家の出身なのかも不明なのです。
ともかく、頼朝との間に深い絆を持つ尼が絶対的な礎として控え、表向きの兵馬の事は能員が主に進めていた…と想像するのが自然な比企一族の姿ですね。

頼朝は嫡子の頼家が生まれると、比企能員夫妻に後見(乳父母)させますが、頼家が元服すると能員の娘:若狭局を娶せ、後に嫡男の一幡が生まれます。
能員は順調に行けば二代将軍の舅、三代将軍の外祖父になる訳で、この過程で一介の武蔵国郡代に過ぎなかった比企家は信濃・上野二ヶ国の守護にまでなっており、実力も蓄えていました。
能員にそうした権力志向の野望が有ったかどうかは疑わしいところですが、頼朝が死ぬと北条政子の父:時政の嫉妬からターゲットにされ、北条の有力御家人潰しの一番手として騙し討ちされ、頼朝の孫の一幡まで含め、一族こぞってこの地で命を絶たれてしまいました。

比企一族の墓はやぐらに入っていません
僅かに2歳だった末子の能本だけは流罪で死を逃れ、僧になっていましたが、後に時政の孫にあたる政村が“比企氏の怨霊に取り憑かれる”という変事があり、北条氏は比企氏慰霊の寺を建てて、能本を呼び戻して住職としたのがこの妙本寺なのです。
比企能員の人となりに関しては語られたものが少なく、想像も難しいのですが、尼の養子として比企家に入って以来、頼朝に対する比企尼の思いを実現する事を是として最善を尽くした人の様な気がしています。
頼朝の子や孫が無事に成長し、将軍になって鎌倉の源氏政権が末代まで繁栄して行く事が比企尼の希みだった筈ですから、そこに自己顕示の欲得は入らなかったと思うのです。
そんなイメージの立証は最期の行動に現れていて、『仏事の相談をしたいから我が邸に来て欲しい』という時政の依頼を受けた能員は、危険を予知した家臣の制止を聞かず、平服で出掛けて行って、門を入った途端に武装した北条家臣に討たれたと言います。
源氏の繁栄を望まない相手に“一縷の良心が有る”事に賭けた結果ですね。

この寺は紅葉が見ごろでした
次は北に500mほど北上した宝戒寺を訪ねます。
ここは天台宗の寺院で、元弘3年(1333)、後醍醐帝の命により北条高時の慰霊のため、足利尊氏が創建したと言われます。
ただ、この年は鎌倉幕府が滅亡した年でもあり、戦後のゴタゴタも踏まえると、もう少し後の創建でしょうね。

本堂 三つ鱗紋もないし、北条色は…ありません
この地にはかつて北条邸が有ったと言われ、時政の名越邸ではなく、その子の義時の邸だった様です。
義時邸は“執権屋敷”とも“小町邸”とも呼ばれて、北条得宗家(本家)の邸宅として代々受け継がれて、最後の得宗家当主が高時になります。
大蔵御所から移転した宇都宮辻子御所→若宮大路御所の北隣りになり、将軍と執権は常に近くに住んでいた事が判ります。

比企氏を滅ぼした北条時政は、幕府の実権をほぼ掌握し、将軍:頼家を引退させると政子の意向も酌んで、弟の実朝を将軍にします。
次には武蔵の有力御家人で人望の篤い畠山重忠を、後妻に来た“牧の方”との間にできた娘の婿である武蔵国司:平賀朝雅との利害のもつれから、これまた騙し討ち同然で殺害し、滅ぼしました。
この事は息子の義時や政子の反対を押し切っての蛮行であり、親子間に深刻な溝ができてしまいます。

宝戒寺の真南、小さな川を渡った斜面には…

次には、これまた牧の方の我が儘で、将軍:実朝を殺して平賀朝雅を将軍にしよう…と、ねだられます。
しかし、時政も実朝は自分の孫であり、躊躇してグズグズしていたところ、企みを嗅ぎ付けた義時と政子が名越邸に居た実朝を奪って小町邸に保護し、時政夫婦を強引に伊豆に幽閉して失脚させました。

さらに登って行った中腹には洞穴があり

ちょっとした心霊スポットになっている様です

これで時政が持っていた実権はすべて義時に移ります。
義時にとって、此処は幕府の在り方を正常化させる大きなチャンスでしたが、時政の強権政治の反省を踏まえたやり方はすぐに行き詰まり、“弱い”と見れば権力奪取に動く御家人は討滅して行くしかなくなります。
彼らが神輿に担ぐのは源氏の血筋を持つ“軽い貴種”であり、是は源氏一統の復権というイデオロギーに根ざしたものではなく、明らかに自己権利拡大のパワーゲームです。
義時は、そうした利用される候補者をも管理して行く必要がありました。
そうした中で起こったのが『承久の変』で、欲に揺らぐ武家から政権を奪取する大掛かりな“朝廷の逆襲”でした。
政子とともに苦心惨憺してこれを押さえた義時が得た結論は…
この国と人は天子様(天皇)のものである 天子様から治世を預かる事ができるのは将軍だけで、将軍になれるのは源氏の統領だけである 人は徳だけでは付いて来ない 然るに、我ら北条が天下を治めるには強権で押さえつける恐怖政治しかない
というニュアンスの事だったと思うのです。
逆に言えば武家社会の安定を北条氏が保証する…という決意でした。


大河ドラマ『草燃える』、『太平記』より
悩んだ末に武家社会の負は北条が背負う事を決断した2代執権:北条義時でしたが、14代執権:北条高時の頃になると治世欲と能力は既に無く、政治を委託された家臣の長崎円喜は権力を使って自己の利殖に走ります 北条政権終焉のシグナルです
だいぶ暗くなって来ましたが、今日のうちにもう一か所、寿福寺を訪ねておきます。

寿福寺は臨済宗建長寺派の寺院で、鎌倉五山第三位の格を持つ大寺院でした。
創建したのは北条政子で、正治2年(1200)開基といいますから、頼朝が死んだ翌年の事ですね。

寿福寺はもう観光客もなくヒッソリしています

新たに寺が建立される時は、その人(権力者)の強い思いや願いがあるものです。
此処は頼朝の父:義朝がかつて屋敷を構えていた場所で、源氏の聖地“源氏山”を背にして八幡宮を向いた、絶好のロケーションにあります。
実はこの寺院は、総門~中門の参道と墓地以外は公開されておらず、観光客を受け入れている他の寺院の様な説明看板もありません。
墓地に登って行くと、一番奥のやぐら群の中に、源実朝と北条政子の墓が隣り合ってあり、何故か頼朝の墓はこの寺には在りません。
建立を決めた政子の中では、頼朝はもう過去の人で、その後の政子の大切な人々が如何に幸福に繁栄して行けるか… そんな思いから建てた事が“寿福寺”という命名から想像できるのですが…。

最高権力者のまま死んだ“尼将軍”にしては質素ですね
北条政子という女性、そもそもなぜ“北条”政子と呼ばれるのか疑問でしたが。
弟の義時と思いを同じにして、陰に陽に幕政を支えた政子と義時の共通した思いとは…、やはり北条氏の繁栄と安定した支配しか思い浮かべません。
政子は誰よりも“愛する者への情の深い”女性であり、頼朝と結ばれた経緯にそれが現れています。
しかし、頼朝の命で義高が殺され、義経、範頼の弟たちさえも非情に誅され、実父の時政は若い後妻のために我が子を殺し、実朝も…。

そして隣には実朝の墓 源氏の嫡流の終焉です
武家と朝廷との関わり、また御家人のパワーバランスの変化の度に大切な家族が翻弄され、結果は悲しみしか残らない事を経験し続けて来た政子が得た結論もまた、“北条氏”による圧倒的な強権専制政治“だったのではないでしょうか。
その決断をした時に、公武合体の理想論へと傾く我が子実朝は、終わらせるしかなかった。
そんな贖罪の思いがこの隣り合った墓から感じられました。

寿福寺にも洞門がありました こちらは通行可です(^-^;
日没になったので、宿所(平塚)へと移動します。
次回(3日目)は『朝夷名切通し』からスタートします。
つづく