今回は頼朝の墓から山裾を東に向けて、遺跡や寺社を訪ねて歩きます。
 
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 頼朝の墓に隣接した形で、大江広元と島津忠久の墓(やぐら)があります。
 
頼朝が営んだ法華堂は北条義時が継承し、自身の持仏堂を建て、同じく法華堂と呼んで、その敷地内に大江氏、島津氏の墓所がある感じですが、きっと後世の人の整備なんでしょうね。
 
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 大江広元は朝廷の下級官吏でしたが、既に頼朝に仕えていた兄:中原親能の縁で鎌倉へ移り、頼朝の政所の行政官として活躍しました。
 
 中小の坂東武者の集合体だった鎌倉幕府にあっては、広元の能力は貴重だった事でしょう。
 
“守護地頭の制度”を採用された広元は別当となり、幕府の基礎を作り上げて行きます。
 
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大江広元の墓と言われるやぐら しっかり近世の整備がされています
 
 頼朝が死んで、実権が北条氏に移ってもその位置づけは変わらず、義時や政子との関係も良好だった様です。
 有能でありながら、強い武力の背景を持たない広元は、北条氏にとっては扱い易い安全牌であり、厚遇して繋ぎ止めておかないと、政敵に渡したらヤバイ存在ったのでしょうね。
 
 
 広元は嘉禄元年(1225)に78歳で死去しますが、その時の官位は正四位で、北条義時を上回っていました。
 備後をはじめ多くの所領は6人の息子が分割相続しましたが、広元の隣に眠る広季をはじめ、多くが宝治合戦では三浦義村に加担したため没落し、地方へと逃散してしまいます。
 
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こちらは毛利家初代:毛利広季(広元の子)の墓ですが、こっちの方が立派ですね(^-^;
 
この広季の子孫では中国の毛利元就が有名ですね。
 
 広元の邸宅は2kmほど東の十二所にあったので、この墓は江戸時代の長州藩による整備と言われますから、毛利の殿様が鎌倉を訪ねて先祖を供養する為の“供養碑”の色彩が強い様ですね。
 

 
 
 同じ様に、石の柵を挟んだ隣には島津忠久の墓があります。
 
薩摩の島津家の始祖がこの人ですが、頼朝の乳母だった比企尼の長女で、後に安達泰盛に嫁いだ丹後内侍の、前夫との間の子と言われます。
 
比企尼の縁者という事では御家人として頼朝に重用され、主に比企能員と行動を共にしています。
 
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こちらは島津忠久の墓ですが、やぐらの地肌はそのままですね
 
 比企氏が北条義時に滅ぼされた“比企能員の変”では領地の薩摩に居て不在でしたが、連座して所領を大幅に減らされ、不遇の時代を過ごしますが、北条氏の専制体制が確立すると中央を離れ、薩摩に移って領国経営に専念します。
 
しかし、頼朝時代の領地を自力で回復するには、戦国時代の到来を待たねばなりませんでした。
 
 この墓も頼朝の墓と同様に、江戸後期に薩摩藩主:島津重豪が整備したもので、毛利家の墓はその約50年後に隣に整備された様です。
 
この頃から薩長は仲が良かったのかな?
 
*忠久には頼朝の落胤説があり、薩摩藩では強く推してた様ですが、京で生まれた忠久の種が頼朝であるとすれば、11歳までの出来事となります。ちょっと無いかもね(^-^;
 
 

 
 
 墓の階段の下にあまり手が加えられてないやぐらが有り、“三浦一族の墓”と言われています。
 
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大江・島津の墓に登って行く脇に古いやぐらが残っています
 
 
 三浦氏は三浦半島一帯を支配する有力な氏族で、伊豆の一国人に過ぎなかった北条氏よりは遥かに強大な氏族でした。
 石橋山の合戦では頼朝方の主戦力であり、その後も戦功から有力御家人として高い位置づけにありました。
 
 三浦氏の当主には高い栄達欲が有り、頼朝夫人を出しただけでさしたる戦功もないのに幕府を牛耳る北条氏には強く“思う所”があった様です。
 しかし、初期の当主の義村、義澄は状況を冷静に捉えて、北条氏のライバル潰しには積極的に加担する事で高い地位を保ちました
 
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敗者の墓は質素ですが、三浦氏は地元の豪族だけに、お供えをして供養する有志も居る様ですね
 
 そして次の泰村の代になると北条氏に匹敵する権勢を持つ様になるのですが、道を急いだ泰村は“公家将軍”に近づいて北条追い落としの本性を露わにします。
 
 これを危険視した執権:北条泰時は、泰村に権力の座から遠ざかる様に求め、円満な解決を試みるのですが、泰時に娘を嫁がせて外祖父となっていた安達景盛が過敏に反応し、泰村にトラップを仕掛けて挙兵(宝治合戦)させ、幕府としてこれを鎮圧する事で三浦氏を滅ぼしてしまいます。
 
 追い詰められた三浦一族は法華堂に集まって300人余りが自決したと言いますから、まさにこの地で終焉した訳ですね。
 

 
 
 墓所巡りを終えてさらに東へ300mほど向かうと、鎌倉宮の参道に交差しますから、左に折れて参拝に向かいます。
 
 鎌倉宮はこの地で没した護良親王を祀る神社ですから、少し時代が下がった室町初期の話になります。
 
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鎌倉宮への参道 親王を祀るだけに参拝者は多いですね
 
 護良親王は超武闘派で知られる後醍醐天皇の皇子ですが、子だくさんの後醍醐帝にあっては皇太子の目は無く、6歳で三千院に入院(病気ではないが)しました。
 
 僧としては三千院門跡を経て天台座主にまでなりますが、日々の修業やお勤めよりも武芸を好む、極めて異例な座主だった様です。
 
 23歳の時に父:後醍醐帝が討幕の“元弘の乱”を起こすとすぐさま還俗して、天皇側の武将として戦線に立ち、親王に従うのは赤松則祐、村上義光などの反幕勢力で、鎌倉幕府討滅の一助となりました。
 
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当然ながら菊の御紋です。 鎌倉宮は親王が幽閉された東光寺の跡に造営されています
 
 しかし真の朝廷による政権を標榜する護良親王は、その後に施行された建武の新政には批判的で、後醍醐帝と対立します。
特に武家代表の足利尊氏とは完全に相容れず、何かと敵対する行動を取ってしまいます。
 
 これは、強力な武士団を擁して全国を抑えられる尊氏とは上手くやりたい後醍醐帝にとっては頭痛の種で、尊氏から帝のご意志では?とツツかれると堪らず、護良親王を捕縛して尊氏に引き渡してしまいます。
 
朕は預かり知らぬ事、不埒者は煮るなり焼くなり…』という事か?
 
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忠臣:村上義光の像ですね。 撫でると御利益があるのか、汚れてちょっと情けない感じになってるのが残念です
 
 親王は鎌倉に送られ、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されますが、間もなく北条高時の遺児の北条時行が残党を集めて挙兵した“中先代の乱”が起こり、足利方が押されて反乱軍が鎌倉に迫る事態になります。
 
 この時に鎌倉に居た足利尊氏の弟:直義は、反乱軍が護良親王を奪って旗頭に担ぐ事を恐れて、独自の判断で親王の殺害を命じました。
 
 乱が平定された後、この直義の行為が朝廷から告発される事は無かった様なので、やはりです。
 
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少し北へ歩いた山の斜面にある御陵 階段がずっと先まで続いています
 
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かなり頑張って登りましたが、結果は墓石は見られません 皇族の陵とはそんなもん(^-^;
 
護良親王自身も、優柔不断に見える父に代わって皇位に就くくらいの気概を持って言動してたのかも知れませんね。
 

 
 
 護良親王陵のある二階堂から南下して、金沢街道に出て浄明寺(地名)に入って行きます。
 
地名は足利氏の鎌倉での氏寺:浄妙寺に由来するもので、鎌倉時代の足利氏に関連する遺跡が集中しています。
 
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金沢街道脇の杉本寺の参道です
 
 浄妙寺に入る前に、その手前にある杉本寺に寄って行きます。
 
この杉本寺は鎌倉最古の寺と言われる天台寺院で、開基はなんと天平6年(734)行基が自らに依るものと伝わっています。
 
 この一文だけで寄ってみる気になったのですが、建武4年(1337)、南北朝の争乱初期に、奥州から大挙上洛する北畠顕家の軍が鎌倉を攻め、関東公方(この時は義詮)の執事だった斯波家長はこの杉本寺(杉本城)に籠って防戦し、討死にした場所だそうで、境内には一族の墓標がズラリ並んでいます。
 
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斯波氏一族の夥しい石塔群
 
 また杉本寺の長い歴史を証明するモノとして、山門から本堂へと続く苔むした石の段があります。
 
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沢山の参詣者により削られた石段はもう危険なため閉鎖保存されて、脇に別の階段が作られていますが、これこそどんな仏像にも勝る寺宝だと思います。
 

 
 
 いよいよ今回最後の浄妙寺の境内に入って来ました。
この寺は鎌倉幕府開幕時の足利家当主だった足利義兼による開基で、鎌倉五山の第五位に格付けされる寺院です
 
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浄妙寺の山門は鎌倉五山にしては質素ですね
 
 浄妙寺内の目的地として最初に訪ねるのは足利直義の墓所です。
足利直義については何度も出てきますが、尊氏の同母の弟ですね。
 近年研究が進み、個人の性質や能力、果たした役割や肖像画についても明らかになって来ています。
 
 温厚で人懐っこく人間味豊かな尊氏が“器量人”として人望を集める陰で、沈着冷静に物事を判断し、政策を次々に立案して幕府を主導したキレ者が直義と言われています。
 
そして、トラブルになったら粛々と非情にシューティングを実行した執事の高師直。
この三人のトロイカ体制で室町幕府は出来上がって行ったのです。
 
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昔の教科書で勉強した者にとっては… もうグチャグチャです(^-^;
 
 
 その直義の墓がどうして鎌倉にあるのか?ですが、幕府が軌道に乗ると、行政官直義と執行官の師直が対立する場面が増えてきます。
 
 直義の求めに抗し切れなくなった尊氏は、師直の執事職を解任しますが、怒った師直は挙兵して、観応の擾乱と呼ばれる大規模な内輪揉めに発展します。
 
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本堂脇を登って行くと行き止まりに直義墓への案内看板 道は綺麗に舗装し直されています
 
 まず大軍で尊氏と直義の居る室町邸を囲んだ師直は直義の罷免を要求し、困窮した尊氏は直義を出家させる事で兵を引かせます。
 
 緒戦に負けて失脚した直義でしたが、師直が留守の間に京を脱して吉野に奔り、南朝勢の援軍を得て挙兵します。
 
この南北朝の戦いは直義の与党が加わった南朝方が優勢で、直義を支援する関東管領:上杉憲能との戦いで高師直は討死にしてしまいました。
 
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その道を登って行くと、やぐらが現れます 此処が延福寺の跡らしい
 
 師直が居なくなるともともと兄が大好きな直義は尊氏の元に戻ります。
寛容な尊氏もこれを喜んで迎え、元サヤに戻ったかに見えた足利兄弟でしたが、次代を担う尊氏の嫡子:義詮やその側近達は違う見方をしていて、幕府にもう直義の居場所はありませんでした。
 
 義詮の直義討伐の動きを察知した直義は鎌倉に逃れて、鎌倉に直義派勢力を糾合して備えます。
 これに対し尊氏、義詮親子はなんと南朝の有利な条件で南北朝の合一を図ります。
 
そして南朝方から直義追討令を出してもらう事で直義与党を骨抜きにし、圧倒的な勢力差にした上で鎌倉に進軍し、直義を降伏させました。
 
*その後南朝方は京に攻め込んで尊氏討滅を図ったため合一はご破算になるのですが…。
 
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直義の墓には意外に多くの石塔がありました 天下を二分するくらい直義与党は多かったですからね
 
 
 浄妙寺の子院の延福寺に幽閉された直義は間もなく病死しますが、これは尊氏による毒殺であると太平記には記されています。
 

 
 
 浄妙寺は開基当初は極楽寺と号し、真言宗の寺院でした。
 
それが浄妙寺という臨済宗の寺に変わったのは、尊氏・直義兄弟の父である足利貞氏の法名浄妙寺殿弘山義観大居士に依ります。
 
 この足利貞氏という人ほど、苦労ばかりの一生を送った武士もなかなか思い付かないのですが、貞氏の苦労に入る前にザッと鎌倉幕府の権力者の変遷をまとめて見ました。
 
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 源氏の頼朝を主人として、有能な御家人が交代しながら役目を果たし主人を盛り立てて行く事で始まった共和的な鎌倉幕府の仕組みでしたが、執権を務めていた北条氏は実権の簒奪を狙ってライバルとなり得る有力な御家人達を次々に滅ぼして行きます。
 頼朝の子達を策略を以って殺害して源氏の血を絶やすと、京の公家から思いのままになる傀儡の将軍を迎え、北条一族による専制政権を作り上げます。
 
 これに対して討滅を免れた御家人の多くは地方へ逃避雌伏し、難を避けていました。
しかし、有能な御家人を排除した事は、政務が滞る、適切な判断ができないという弊害も顕在化させます。
 北条氏は執権の他に連署という役も作り、これも一族で独占します。
さらに我が世の春が続くと一族の公家化が進み、歌舞音曲や蹴鞠には長けても政治が出来ない面々が増えて行きます。
 すると北条氏は御家人を登用して使うのではなく、御内人(みうちびと)と呼ばれる一族の家臣を幕府の行政官に付けて、御家人が力を合わせる開幕の概念自体を否定してしまいます。
 
 しかし、元寇という未曽有の国難が勃発すると、挙国一致での対応が必要になり、執権の時宗が必死に旗を振りますが、御家人たちは思う様には踊ってくれません。
北条氏は“武家の棟梁=源氏の将軍”という越えられない壁を認識させられます。
 この時点で鎌倉に在る源氏といえば足利氏であり、全国の御家人の思いもそこにありました。
しかし、北条氏の権勢欲は変わらず、足利氏はチャンスを伺いながらも忍従して行くしかありませんでした。
 
 
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浄妙寺本堂です こちらも至って普通のお寺です
 
 足利貞氏が家督を継いだのは弘安7年(1284)の事で、父:家時の死(自害)による相続で、まだ10歳でした。
 この年は元寇の3年後で、源氏将軍が最も渇望されていた時期でした。
家時が死を選んだ理由は、そんな声に押されて足利が担ぎ出される事への困惑があり、“地力が無くまだその機は満ちてない”という認識に反して、高まる北条の警戒心が粛清を判断する前に、自分自身で答えを出したのだと思います。
 
 『自分が居るから皆が担ごうとする、自分が居なくなれば北条の警戒心も緩み、足利は今しばらく生き残れる…。』という究極の選択の自刃ですね。
 
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貞氏の墓です
 
 北条氏が当面の対策として取っていたのは、朝廷から頂いた“親王将軍”に源姓を名乗ってもらい、将軍の専任家臣として源氏の足利氏を付けるというものでした。
その為に足利氏は『源氏嫡流』が公式に認められます。
 北条氏にとっては危険な部分も有りますが、既定の事実であり、足利をちゃんと見張れば実害はないという計算が働いています。
 足利氏も過剰な警戒の目が緩めば好都合だし、源氏嫡流が公的に認められ伝播された事は尊氏の代になって物凄い効果になって還って来ます。
 
 貞氏も将軍側近の職務に就いて、無駄に政争に関わる事もなく、ただ時期を待つ日々が続きます。
 しかし、将軍の側近ともなると、それなりの家格が与えられ(従5位下 讃岐守)、これは北条得宗家に次ぐ高いものでしたから、他の北条一族からは良くは思われません。
 また、反北条勢力からは北条に屈した裏切り者とのイメージを持たれてしまい、忍耐の日々だった事に変わりは無かったと思います。
 
 
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境内の紅葉は見ごろを過ぎてしまってますね
 
 貞氏の元には金沢流北条氏の顕時の娘が嫁ぎます(釈迦堂殿)。
まもなく男子をもうけ、その子は元服すると高義と名乗り、足利の通字の氏ではなく、源氏嫡流の義を使っています。
 これで北条の内にも味方が出来て、風当たりも和らぐ事だろう…。 貞氏は内心ホッとしていた事でしょうね。
 
 間もなく貞氏は家督を高義に譲って出家した様ですが、高義は病弱で僅か数年の後には死んでしまいました。
これでまた振り出しです。
 
 貞氏には側室の上杉清子との間に高氏、直義の2子が居ましたが、北条氏との間には北条の姫が嫁いで産んだ子が跡を継ぐという暗黙の掟があり、無理に元服前の高氏に継がせると、高氏が無用に苦しむのは目に見えています。
それなら、自分が元気なうちは…と、再度当主に復帰しました。
 
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大河ドラマ『太平記』より 足利貞氏
 
 それから13年、貞氏は足利氏を守り通しますが、元服した高氏には赤橋流北条久時の娘:登子が嫁いできます。
登子の兄は最後の執権になる北条守時なので、しっかり保険を掛けたと言えますね。
 
 また、北条政権への挑戦のチャンスは、正中元年(1324)に起こった“正中の変”で見えてきます。
 6年前に即位した後醍醐天皇は稀に見る武闘派の天皇で、討幕を画策しますが、残念ながら事は事前に露見し、失敗します。
 しかし、承久の変から無かった朝廷の動きに、貞氏はピン!と来た事でしょう。
天皇と源氏の棟梁が組めば、クーデターは成功する! あとはそのタイミングだ!
 結果から見て、貞氏の討幕ストーリーがこの時から水面下で練られ、領地の三河では着々と準備が進んでいたとしても不思議ではないですね。
 
 しかし、元弘元年(1331)9月、貞氏は59歳の生涯を終えます。
家督は北条の姫を娶った高氏が障害なく継ぎますが、あと2年長生きしてたら、自らの手で北条を葬り去る事が出来たのに…。
 
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次は七口の六番目、名越切通しへ向かいます。
 
つづく