また巨福呂坂を越えて鶴岡八幡宮に戻って来ました。
この時点で9:30、陽もだいぶ高くなって人出が増え、境内も賑わい始めています。

八幡宮は応神天皇を祀る神社で、武運長久の神として源平藤橘を問わず武家の崇拝を集め、全国に八幡神社が造営されました。
鎌倉の八幡神社の興りは源頼朝の五代前の頼義が、源氏の守護神:石清水八幡宮を勧進して、由比ヶ浜の近くに鶴岡若宮を造営したのが始まりで、その子の義家(八幡太郎)も修繕しました。


境内には露店も並び始め、参拝客を迎える準備が進みます
その後に鎌倉に入った頼朝が、それを現在の地に移転して鶴岡八幡宮とし、社殿を起点に由比ヶ浜へ大路を通し、それを中心に幕府の施設を整備して行きました。
言わば鎌倉の中心と言える施設ですね。
神社は61段の石段を挟んで上段を本宮(上宮)、下段を若宮(下宮)と呼んでた様で、他にも石清水護国寺を勧進した“神宮寺”も併存していましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。

実朝を殺害した甥の公暁はその場で討たれて源氏嫡流が滅んだ現場 大銀杏の株が保存展示されています
唱歌:鎌倉より 『♪上るや石のきざはしの 左に高き大銀杏 問わばや遠き世々の跡』
…の、樹齢七百年と言われた大銀杏ですが、残念な事に7年前の春に強風で根元から折れ倒壊してしまいました。
すでに後継の銀杏が植えられ育ちつつありますが、昔の事を銀杏に聴けるのは何百年後の人達なのでしょうか…。

61段の石段はけっこう急で、参拝者には苦行です

朱塗りの社殿も創建当時は白木造りだったそうです
八幡宮は鎌倉幕府が滅亡した後も、河内源氏の同族だった足利氏の崇敬を得て厚く庇護されて行きますが、関東公方が古河に移ると次第に廃れる様になり、戦国時代、里見義尭の鎌倉攻めでは放火され社殿の多くを焼失しました。
*里見氏も清和源氏なんですけどね…
しかし、時の戦国大名:北条氏綱の手ですぐさま再建され、上杉の北条攻めの際にも謙信はわざわざ八幡宮に詣でて、ここで関東管領就任の儀式を行ないました。

境内にある白旗神社は黒塗りでした

また、豊臣秀吉も北条征伐の後に詣でて、頼朝の木像を相手に互いの功を褒め合ったんだそうです。
いつの時代も源氏に関わらず、武人の神として崇敬を集めていた事が窺われるエピソードですね。
江戸時代になっても、源氏の支族を称する徳川氏はこれまた手厚く庇護し、現在に残る社殿の多くは11代将軍:家斉が立て替えたものだそうです。
『若宮堂の静の舞』
唱歌:鎌倉より 『♪若宮堂の舞の袖 静のおだまき繰り返し 返せし人をしのびつつ』
下段の若宮にある舞殿は、静御前が舞を舞った回廊の跡に建てられた建物です。

本宮の拝殿と一直線に並ぶ若宮の舞殿 対になって綺麗です
静御前とはご存知の通り源義経の愛妾で、京で売れっ子だった白拍子の静を見初めて、妾にしたのだと言われます。
では白拍子とは何者?となるのですが、短絡に“遊女”を思い浮かべるとそうではありません。
平安末期から鎌倉期にかけて流行った歌舞の芸人の事で、巫女さんの舞をベースに若い女性が男装で謡いを加えて舞うスタイルは、貴族階級の宴席には欠かせないものでした。
ですから“当代一の白拍子”とも言われると、容姿も声も美しく、即興の謡いに応える頭脳も要求される…最高級のエンターテイナーな訳ですね。

境内にある二つの池 源氏池には島が三つ、平家池には四つあって、『産と死』を表しているそうで、政子による命名だそうです 政子は静をリスペクトしてたみたいですね
義経の妾になった静でしたが、義経が奥州に落ち延びる際には難行を見越して『そなたは母とともに京で生きよ』と吉野に置いて行かれます。
北条時政の手の者に捕らえられた静は鎌倉に送られ、頼朝の尋問を受けていました。
ところが、鎌倉の御家人達の間では静の噂で持ち切りで、一度当代一の白拍子の舞を見てみたい、声を聴いてみたい、そして最後には何とか口説こうと宿舎を訪ねる者まで現れる始末です。
『追われる身とはいえ、私は鎌倉殿の弟君の妾です、御家人の身分の者からその様な艶言を投げかけられるなど、ちーがうだろ!ちがうだろっ!ハゲ!』と、たいそう怒ったそうです。
ではせめて舞だけでも…の願いにも『その様な心境になれない!』と頑なに拒んでいました。
ところが、静の出現に瞳を輝かせた少女がひとり居て、『静の舞を見たい』と強く望みます。
頼朝の長女の大姫がその少女で、義高の死以来笑う事がなかった娘の望みに、頼朝と政子はほとんど頼み込む形で“静の舞”が実現します。
頼朝の一族と御家人衆が居並ぶ中、八幡宮に奉納する形で若宮の回廊で始まった静の舞。
大河ドラマ『義経』より 静の舞

しづやしづ~ しづのおだまき くりかえし~ むかしをいまに~ なすよしもがな~
よしのやま~ みねのしらゆき ふみわけて~ いりにしひとの~ あとぞこひしき~
現代語訳:しづ(麻布)を織る糸巻きの糸が絶えぬ様に、あの日々が今も続いていたら 雪の吉野に入って行ったあの人の足跡が今も恋しい
もちろん義経を恋うる歌なので頼朝は怒るのですが、隣の政子が
『まぁそう怒られますな 私とて静の立場になれば、貴方を想ってあの様に歌いまする』と収めたそうです。

舞殿では婚儀が執り行われていました
吾妻鑑には、この時の静の舞の様子が『誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す』と絶賛して記録されています。
舞だけでなく、鎌倉に滞在した10ヶ月ほどの静の様子は吾妻鑑に記録されていて、鎌倉の人の耳目を集めていた事が判りますね。
これにより、義経の妻妾の中では静だけが“気高く美しい女性”として語り継がれる事になるのです。
八幡宮を出て、次は大蔵幕府跡へ向かいます。
大蔵幕府とは頼朝の居館と幕府の中枢機能が詰まった館の事で、治承4年(1180)に鎌倉に入った頼朝は大蔵郷を拠点に定め、居館の建築に取り掛かります。

大蔵幕府の碑 この道の突き当りに頼朝の墓があります
鎌倉全体から見れば少し奥まっている気もしますが、外湊の六浦へと続く街道沿いだったのが決め手と言います(これは貴重な情報です!)
規模は八幡宮の東200mほどの平坦な地で、東西270m、南北200m程度の広さだったと推定されています。

大蔵幕府跡は小学校になっています
館は“寝殿造り”であったそうですが、発掘調査結果など、今回はその詳細については資料館が休館中で残念ながら辿り着けませんでした。
周囲は北条、和田、三浦、畠山など主要な御家人の館が取り囲んでいました。
ここが居館になっていたのは頼朝時代の40年間ほどで、その後は若宮大路沿いの八幡宮の南に移ります。

畠山重忠邸は八幡宮と幕府の間にあった様です
頼朝の墓は、大蔵幕府跡地の北にある大倉山の麓の白旗神社の境内にあります。
此処は生前に頼朝が持仏堂を造営していた場所で、頼朝の遺骨は永らく持仏堂に安置えていた様で、法華堂と呼ばれていました。
現在の墓はずっと後世になって江戸時代後期の1778年に薩摩藩主の島津重豪が荒れ果てた法華堂の惨状を嘆いて整備したものだそうです。
なんか…おかしいですね。

これが頼朝の墓かと思うと…
頼朝の死因は落馬事故によるとされ、51歳で亡くなっていますが、吾妻鑑には死因などの記述が一切ありません。
鎌倉に武家による政権を開いた最大の功労者で、御家人達の上に君臨する頼朝の最期がなぜこうなのか?
頼朝を語るには、まだまだ研究する必要がありますね。

頼朝の墓の後ろには大倉山に登る古道があります
頼朝の後30年間ほど、実質的に幕府を仕切った北条義時は、死に臨んで『頼朝公の墓を見下ろす大倉山の山上を我が墳墓とせよ』と遺言してるそうです。
唱歌:鎌倉より 『♪歴史は長き七百年 興亡すべて夢に似て 英雄墓は苔むしぬ』

次は室町時代 護良親王と足利直義です
つづく