亀ヶ谷の切通しを北へと下ってくると、山ノ内の谷間に出ます。

この谷は戸塚から大船を経て江ノ島へと流れる柏尾川の支流が刻んだ谷で、北西に向け拓けていますが、鎌倉とは尾根で隔てられています。
現在でこそ鉄道(JR横須賀線)や県道が通って鎌倉の玄関口みたいになっていますが、当時は巨福呂坂の切通しはあるものの、とても険しいルートだった事から利用する人も少なく、鎌倉から見れば隔絶された“山の内”という見方が地名の由来なのでしょうね。

此処に屋敷を構えた鎌倉上杉家の宗家は“山内上杉家”と呼ばれて、室町~戦国中期の関東での最大勢力となるのですが、現在のこの地は“山ノ内”の正式呼称よりも駅名の“北鎌倉”の方が通りやすい地名になっていますね。
この北鎌倉の特徴はといえば密集した寺院の数で、山ノ内の本谷の両側に続く小さな谷間の全てに寺院が収まっている…と言っても過言でないほどです。

しかも鎌倉五山のうち三山までが此処に集中してる様に、それらの寺院の格式や規模は総じて大きく、地域全体に静寂と落ち着いた雰囲気をもたらしています。
実際は、そんな古都らしさを求めて観光客が集中し、休日は結構な賑わいなのですが…(^-^;
今回はそんな“宗教都市”鎌倉の山ノ内の寺院をハシゴして廻ります。

まず亀ヶ谷の出口にあるのが長寿寺です。
長寿寺は臨済宗の寺で、1336年に足利尊氏が創建したとの説がありますが、この場所は鎌倉時代から足利氏の屋敷があったとも言われます。

北鎌倉の隠れた穴場の長寿寺 紅葉の時季には大切な人を誘って来る場所なんだそうです
足利氏の居館は鶴岡八幡宮の西隣の“雪ノ下”にあったので、此処には別邸があり、亀ヶ谷口を守る拠点にしてたのかも知れません。
鎌倉で生まれ育ったものの、武将~将軍としての活躍の舞台は西国だった尊氏です。
寺院としては、尊氏の二男で鎌倉公方2代目の基氏が、尊氏の死後にその菩提を弔うために創建したとも言いますから、その説が有力な気がしますね。

この寺は紅葉が見事な事で知られ、拝観できるのは春と秋の週末の晴天日に限定だそうです。
この日はよく晴れた日曜日でしたが、紅葉にはまだまだ早い状況でしたので、門前までで失礼しました。
次には西隣の谷間にある浄智寺を訪ねました。

苔むした参道がとても良い雰囲気を醸しています
浄智寺も臨済宗の寺で、北条時宗の弟:宗政を弔うために弘安4年(1281)に創建されたお寺です。
中国(宋)からの渡来高僧:兀庵普寧による開山で、鎌倉幕府が滅んだ後も繁栄して多くの高僧を生み、夢窓疎石が居た事でも知られています。
最盛期には11の別院を従える大寺で、鎌倉五山の第四位に位置付けられています。

沢山の参詣信徒の足によって磨かれた石段 何よりも素晴らしい寺宝ですね

山門はちょっと中国風かも
鎌倉自体が衰退し寒村となった室町中期~江戸期にかけては次第に衰退して行くのですが、江戸末期の時点でまだ8院の別院を擁していました。
ところが、大正12年の関東大震災では殆どの建物が倒壊し、その後に復興できたのはごく一部に限られて、現在の姿になっています。

茅葺の書院は質素な中にも気品があります

曇華殿は仏殿で、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩の木像が安置されています。

阿弥陀如来像です
しかし、広大な敷地に限られた建物が分散してるため、とてもゆったりした“山寺”の様な風情があり、観光客が外さない人気の高いお寺でもあります。

さらに西へと向かい、辿り着いたのは東慶寺です。
東慶寺というよりも『縁切寺』と言った方が判りやすいですね。
東慶寺は鎌倉幕府9代執権:北条貞時が創建し、貞時の母:覚山尼が初代住職となった尼寺でした。

縁切寺:別名駆け込み寺は東慶寺の他には上野世良田の満徳寺があるのみでした。関西の女性には不幸な事ですね。
当時の女性は結婚すると自ら離縁を言い出すのは法度であったので、夫の悪行に苦しむ女性が多くいました。
覚山尼はそんな女性達のため、貞時に頼んで、東慶寺に駆け込んで3年間修業を積めば、女性から離縁できる“縁切寺法”を作ってもらい、自ら保護する事で多くの女性を救いました。

この“良法”は江戸時代まで継続され、東慶寺の住職には豊臣秀頼の娘:天秀尼もなっています。
明治時代になって縁切寺法は廃止され、東慶寺も尼寺ではなくなって、住職は男性が代々務めているそうです。

この梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので、県の重要文化財に指定されています
今度はJRの線路を渡って谷の北側の寺院を訪ねます。
北鎌倉駅の脇にある大伽藍は鎌倉五山第二位で、鎌倉を代表する臨済宗大本山の円覚寺(えんがくじ)です。

さすがに此処は観光客で溢れています

さすがに山門も巨大です 後ろから失礼! 楽しそうな四人組でした(^^♪
円覚寺は弘安5年(1282)、8代執権:北条時宗によって国家安泰と元寇戦没者冥福を祈って創建されました。
開山にあたっては中国の渡来僧:無学祖元が招聘され、時宗の禅道に対する思いがこもった寺院と言われており、元寇での日本の将兵だけでなく、元軍の将兵も分け隔てなく祀られています。


鎌倉の大寺院としては既に建長寺がありましたが、建長寺が幕府の“官寺”であったのに対し、円覚寺は時宗の“私寺”的な色彩の強い寺院で、北条得宗家の祈祷寺として北条家に保護されました。

鎌倉幕府滅亡後も円覚寺の興隆は続き、何度も兵火や火災に遭うのですが、その都度再建を繰り返してきました。
さすがに最盛期は49を数えた別院は19にまで減っていますが、それでもなお当時の威容を大きく損なう事無く、禅僧の修業の場としての機能を持って現代に活き続けています。

さらに東の谷の明月院を訪ねます。
明月院の興りは5代執権:北条時頼にまで遡ります。
時頼は山ノ内に私邸を持っていて、出家した際にその屋敷を寺院に替え、最明寺と名付けました。

最明寺は時頼の死後に廃寺となりましたが、子の時宗はその跡地に禅興寺を建て時頼の菩提を弔います。
この禅興寺は規模が大きく、格式の高い寺だった様で、一時は関東十刹の一位とされました。

鎌倉幕府の後の室町幕府も禅興寺を保護し、関東公方は廃れがちだった寺の再興を関東管領:上杉憲方に指示しました。
そこで憲方が別院のひとつの跡地に建立したのが明月院で、以後の禅興寺は明月院に付属する形で残りますが、明治になってついに廃寺となり、明月院のみが現在に残っています。

明月院の門前には山内上杉家の邸宅があり、上杉家の氏寺として独自に寺領を得ていた事が生き残った主因と言われています。
現在の明月院は植栽が見事で、梅雨の時期には『紫陽花寺』として賑わうそうです。
しかし、他の寺院が拝観料を200~300円に抑えてるのに対し、此処だけは500円も取ります(どの季節でも)。
それだけの価値の差は正直感じませんが…。


明月院を出たら時刻は午後3時です。
この後の日没までに建長寺と巨福呂坂切通しを見る時間はありそうですが、早朝から8時間歩き詰めで20㎞近くになり、足の裏が熱くなって来ました(^-^;
その2ヶ所は次回に廻して、初日はこれで北鎌倉駅から帰宅します。
つづく