長谷観音寺にやって来ました。
 
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 この寺院の創建は奈良時代と言われ、十一面観音立像(木像)が本尊になっています。
この観音像は奈良の長谷寺の本尊と同時に造られたもので、伝承に依ると、養老5年(721)に楠の大木から二体の像を彫り出し、一体を長谷寺に納め、もう一体は祈願して海に流したところ、15年後に鎌倉に打ちあがったので、その像を本尊に開基したのが鎌倉の長谷寺(通称:新長谷寺)なんだそうです。
ただ、寺に伝わる遺物としては鎌倉時代より前の物は無いそうです。
 
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 時の権力者の政治色は薄い寺で、鎌倉五山にも含まれていませんが、権力者は競って保護した様で、寄進の記録には足利尊氏、北条氏綱、徳川家康などの名前が見えるそうです。
 昔も今も庶民の信仰を集める寺の様で、この日も観光バスがたくさん停まり、参詣者で溢れかえってたので、此処は参詣を諦めて次へと向かいます。
 
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立派な伽藍ですが、鎌倉五山には含まれないんですね
 
 
 次に向かったのは、安達盛長邸址と言われる甘縄神明宮です。
盛長は源頼朝の側近中の側近で、蛭が小島の流人時代から傍に仕えて支え、頼朝の乳母だった比企尼の長女を娶ったのが盛長でした。
 
 
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少し奥まった立地で、観光客とは無縁みたいです
 
 頼朝の旗上げに際しては、使者として各地の坂東武者のもとに通い与力を要請したそうです。
 緒戦の石橋山で敗れて安房に渡った頼朝一行でしたが、再起のために房総の有力者の千葉常胤、上総広常を味方に付けたのも盛長の功績大で、この後は武蔵、上野、相模の豪族が雪崩を打って頼朝の元に馳せ参じる結果となるのです。
 
 
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境内には墓所はありませんでしたが、三河守護となった盛長の墓は三河蒲郡にもあるそうです
 
 盛長の後の安達氏は、北条氏と連携して、三浦氏などの有力御家人を滅ぼして行き、外戚として幕府内での確固たる地位を確立します。
 4代後の泰盛の頃には北条氏と肩を並べるほどの権勢を得ていました。
しかし、有力な御家人が居なくなると替わって北条氏の家来が力を持つ様になって来ます。
 
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盛長の孫の松下禅尼は3代執権:北条泰時の嫡子:時氏に嫁ぎました。 
時氏は早死にしましたが、松下禅尼が産んだ常時、時頼は第4代、5代の執権についています。
また時頼の子で8代執権:時宗もここで生まれた様ですね。
 
 執権:時宗の時に元寇が起こり、時宗が若くして死去すると、嫡子の貞時が14歳で執権に就任しますが、実権は北条氏家臣の平頼綱が握る様になります。
 そうすると北条一門の安達氏への不安と、元寇での恩賞に不満を持つ勢力が結び付いて霜月騒動(1285)が起こり、安達氏は攻め滅ぼされてしまいました。
 
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 この後の鎌倉幕府は御家人不在の北条氏の専制状態で推移しますが、元々は坂東武者の共和政権で始まった幕府ですから、抑圧される御家人達の不満は地下で膨張し、足利尊氏のクーデターへと繋がって行くのです。 
 
 
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安達邸址からは南に相模湾が臨めます 北には丘を背負い、邸宅としてはとても良い環境ですね
 
 
 さて次はやや北上して高徳院に向かいます。鎌倉大仏が本尊として有名なお寺ですね。
その存在と姿は誰でも知ってる鎌倉大仏ですが、何時…誰が…何の為に…造ったのかは不明な点が殆んどで、特に誰が、何の為には判っていません。
 
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 武士の府である鎌倉にあって、あんな巨大な金属製の像を作るには巨額の資金と資材が必要だから、鎌倉幕府が企図してるのは明らかだと思うのですが、幕府の公式記録の“吾妻鑑”にはまるで歳時記みたいに、出来た事実のみが書かれているだけだそうです。
 
  吾妻鑑によると、暦仁元年(1238)に大仏堂の建設が始まり、5年後に開眼供養に至った事と、大仏は木製である事が書かれており、さらに建長4年(1252)からは銅製での建造が始まった事が書かれているのみです。
 
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お馴染みの 大仏様です
 
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なんとなく… 奈良の大仏様より優しい表情にみえます
 
 この時期の大きな出来事は何もなく、元寇も後の事ですから、目的がハッキリしません。
そして、建造当初の大仏には大仏殿があって、奈良東大寺みたいに屋内建造物だった様ですね。
しかし建武2年(1335)に台風で倒壊すると、再建されるも応安2年(1369)には再度倒壊し、室町時代の明応4年(1495)にも地震での倒壊が記録されており、それ以降は大仏殿が再建される事はなく、露座のままであるという事です。
 
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ちょっと猫背?
 
日本史の謎のひとつですね。
 
 
 高徳院を出て向かうのは、鎌倉七口の二つ目大仏切通しです。
寺を出て道沿いに北へ向かうと、やがて北西方向にカーブして、前方に山が立ちはだかります。
 
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当時はこの山の上の方に切通しがあった(?)
 
 現在はトンネルが貫通していますが、この山を越えて来るルートが大仏口で、防御施設としての大仏切通しがあります。
 
 このルートは切通しを抜けると郭外の常盤に出て、さらに梶原で化粧坂からの道と合流すると、東海道を経て主に西国との往還に使う道だったと考えられています。
 
 トンネルの手前に登り階段があって、切通しへの遊歩道へと登って行きます。
さぁ、此処からはいよいよ山歩きです。
 
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 登り始めてから10分弱、遊歩道は急坂と階段で一気に30mほど登り切ります。
この坂を荷物を背負った馬が昇り降りするのは無理ですから、この道は旧街道ではない様ですね。
 
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道はやがて三叉路になり、看板があります。 右へ行けば源氏山、左は切通しと書いているので、もちろん左へ行きます。
 
すぐに県道のトンネルの西の出口の上に出て、県道を見下ろしながら沿って歩きます。
 
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谷底に降りて行かないのが不思議
 
県道は谷底を走っていて、遊歩道(旧街道)は北斜面の中腹にへばり付く様に造られています。
 トンネル出口から100mも行くと、大仏切通しの標柱が建っていますが、切通しと言うには規模が小さい気がします。
 
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これが、切通し…すか?
 
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普通によくある山道ですね
 
 鎌倉七口が全部切通しを防塁にしてた様に思っていましたが、大仏口はどうやら違う構造だった様ですね。
常盤亭など、郭の外に館もあるので、もっと外側に土塁の様な塁があったのかも知れません。
 
 
 最前の三叉路に戻って、源氏山方向に登って行きます。
次の目的地は北条氏常盤亭址です。
 
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ここからの道もなかなか手強い道のりでした
 
 7代執権を務めた北条正村の別邸と言われる屋敷跡ですが、正村は2代執権:北条義時の五男であり、60歳を超えてからの執権就任でした。
 
 北条一族の中で正村の系統は“正村流”と呼ばれ、鎌倉七口のうち大仏口を管理したそうです。
そのために、大仏切通しの北側の谷に屋敷を構え、一族で住んでいた様ですね。
 
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常盤亭跡に着きましたが、何か撮影をしてます。 広場以外は何も無い様なので、タチンダイへ向かいます
 
 の流派でも、名越流極楽寺流などがあるので、手分けして七口を守っていたのでしょうか。
 現在は住宅団地が造成されて、地形も判別が難しくなっていますが、団地の北側の道路沿いに一族の屋敷が並んでいた様で、谷の奥まった一画常盤亭址として史跡に指定されています。
 
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タチンダイは500坪ほどの広さ 奥にやぐらが有りますね
 
 屋敷地は南北に二段構造で、上の段を特にタチンダイと呼んでいます。
漢字で書くと舘の台になる様ですが、此処が正村の私的な空間だった様で、奥まった崖にはやぐらが造られていた様です。
 
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 やぐらは今後いっぱい出て来ますが、崖に掘られた横穴で、初期は住居だったと言われますが、後には倉庫や墓などに使われた様です。
 常盤亭のやぐらには梁を通した角穴があるので、屋根が掛けられていたと思われ、たぶん、礼拝所、仏間の様なものが有ったんだと思います。
 
 
次回は、源氏山から化粧坂辺りをウロウロします。
 
 
つづく