鎌倉は日本における古代から中世への転換期において、源頼朝をリーダーとする武家が、日本で初めての武家政権を樹立し、それまでの貴族支配に替わる武家の支配を築いた場所です
 
 
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良い文章だなぁ 鎌倉市役所の鎌倉紹介文そのままでした^_^;
 
 鎌倉は武士の都で、三方を山に囲まれたさして広くない場所には、武家政権の遺構と御家人たちの日々の暮らしの痕跡、またそれらを護る要塞都市としての防御の遺構がギッシリ詰まっています。
 
  さらに、鎌倉には宗教都市の側面もあり、それまで官の宗教だった仏教が庶民の宗教へと変革を遂げた場とも言えます。
近場に住んでるこの機会に、何日か掛けて鎌倉をジックリ歩いてみたいと思います。
 
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その1.稲村ケ崎~極楽寺切通し
 
 鎌倉歩きのスタートは南西の端の稲村ケ崎からとしました。
歩き方はさまざまですが、“鎌倉七口”と呼ばれる“切通し”を基本にしながら、周辺の遺構を順次訪ねて歩きます。
 
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 始発に乗って埼玉を出て、池袋と品川で乗り換え、鎌倉からは江ノ電に乗り、スタートから2時間後にはもう稲村ケ崎に居ます。
 
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品川駅AM6:30  いつもは人でごった返す品川も日曜の朝は閑散としています
 
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AM7:20 稲村ケ崎 もう鎌倉に居ます 電車でも意外と近いです
 
 海岸沿いの国道に出て、稲村ヶ崎公園に向かいます。
の突端にある公園で、新田義貞が鎌倉攻略に成功するキッカケになった古事が残る場所ですね。
 
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稲村ケ崎です
 
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  目の前の七里ヶ浜にはもうたくさんのサーファーが繰り出して波間に浮かんでいます。 さすが湘南海岸。
 
 
唱歌:鎌倉より ♪七里ヶ浜の 磯伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし古戦場~
 
の舞台なのですが、あるべき義貞の銅像はありません
 
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 新田義貞は鎌倉に攻め入る為、最初は北の“巨福呂坂口”からの侵入を試みますが、幕府勢の守りが固く犠牲が大きくなったので、大きく西に迂回して、極楽寺口に攻め口を変更します。
 
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剣を投げ入れた断崖 少々の引き潮では道は現れそうにありませんね
 
  しかし、極楽寺口ではさらに苦戦を強いられ、多大な犠牲が出ました。
困窮した義貞は、稲村ケ崎の磯に立ち、太刀を投じて水神に願を掛けると海水が大きく引いて、由比ヶ浜へと続く浅瀬が出来たので、新田軍はれを押し通って市街に侵入し、激闘の末に幕府軍を攻め滅ぼしました。
 
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ここからの眺めは絶景です しかし、凄い数のサーファーだな…
 
 では続いて江ノ電の線路沿いに戻って、難攻不落の極楽寺坂を越えてみましょう。
市街地に入って最初に目に付くのがこの塚で、十一人塚と記されています。
これは当初の極楽寺口からの攻め手の大将で、義貞の一族で腹臣だった大舘宗氏とその家臣を祀る塚の様です。
 
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鎌倉に常住していなかった新田一族は、地理にも不案内で苦戦します
 
 激戦中で宗氏は極楽寺坂を一度は突破しますが、守将:大仏貞直の反撃で敵中に取り残され、側近10名とともに討死にしたそうです。
この事が義貞の攻め口変更の契機になりました。
 
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右側の丸石は、付近の橋の工事の際に見つかった、刀疵のあるたくさんの人骨を再度葬ったもので、鎌倉では工事をする度にそんな人骨が見つかるんだそうです
 
 道が登り傾斜になって山が近付くと、“切り岸”の跡があちこちに見えて来ます。
鎌倉の山は砂岩質の地質で出来ており、傾斜がきつくて兵馬が登れる山ではありません。
 所々にある緩斜面は“切り岸”という人工の断崖が造られていて、鎌倉の外郭には容易に越えられない城壁が巡っている事になります。

 

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至る所にこうした切り岸痕がありますが、崩れず市街化できるのは岩盤だからでしょうね
 
ここで予め切り岸と切通しの役割について紹介しておきますね。
 
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この辺りは道端の手の届く場所を江ノ電が走っています。手を出してはいけませんが(^-^;
 
 極楽寺坂を登って行くと、坂の名前に由来する極楽寺があります
この寺には最盛期には七堂伽藍と49もの小院があり、土地の名前にもなった大寺院でしたが、鎌倉時代初期のこの地は“地獄谷”と呼ばれ、死骸を遺棄(風葬)する場所で、病気や貧困で行き場を失った人たちが集住する場所だったそうです。

 

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何度も火災に遭った極楽寺 江戸時代以前の建物はこの茅葺の山門だけだそうです
 
 その惨状を憂慮した3代執権:北条泰時の弟の重時が寺院を建立して、それらの問題解決の方策のひとつとしたのだそうです。
  大寺院の内実は、多くの院が医療・福祉施設であったと言われており、庶民の生活と仏教が融合した“鎌倉仏教”の象徴的な寺院と言えます。
 
  しかし、新田義貞の鎌倉攻めでは最大の激戦地となって、悉く灰燼に帰してしまい、49院のうち1院のみが現在に残って、極楽寺の名前を継承しています。 

 

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極楽寺坂はそれほどの急坂ではありませんでした
 
 極楽寺を過ぎるとの頂上です。
此処に上杉憲方のものと伝わる墓所があります。

 

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極楽寺坂の頂上です 切通しは下り坂にある様ですね
 
  憲方は室町時代の山内上杉家5代当主で、関東管領も兼任していました。
室町将軍:義満の信頼も厚く、武蔵、上野、下野、伊豆、安房と5ヶ国もの守護を務める、山内家の個人としては最大の版図を得ました。
 
  憲方の功績の多くは、南北朝争乱後の散発する反乱の鎮圧でしたが、関東管領職としては(謙信は除き)、権力と武力が最大で融合されてたピーク時の当主がこの憲方と言えます。
 
イメージ 19上杉憲方のものと言われる墓石群 憲方の墓は後日にまた出て来ますが、自身の屋敷跡である『名月院』にもあり、この墓が憲方のものとの確証は無い様です。
 
 ここから極楽寺坂は鎌倉に向けて下り坂になります。
、同時に道の両側には高い岩の壁が聳える“切遠し”になって行きます。極楽寺坂切通しと言われる場所ですね。
 
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この切通しは車道になってるから、大幅に拡幅されてる様ですね。 当時はたぶん半分以下の道幅だった事でしょう
 
 切通しの途中右手に崖上に登る石段があり、成就院があります。
3代執権:北条泰時の創建と伝わる寺ですが、切通しの様子がよく判るので登って見ます。
 
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成就院の参道から見下ろす切通しの底 戦時の狙撃機能がイメージできますね
 
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成就院の本堂です
 
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境内からは鎌倉の由比ヶ浜が見渡せます あれ? トドの群れでも来てる?
 
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ズームして見ると… こちらもサーファーです! 湘南とはいえ、以前はこんなに居なかったので、サーファー人口激増してますね。
 
 成就院を過ぎると道は平坦になり、鎌倉市街に入って行きます。
前方左手には長谷観音寺の伽藍が見えてきました。

 

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唱歌:鎌倉より『♪極楽寺坂 越えゆけば 長谷観音の 堂ちかく 露座の大仏 おわします~』

 

とゆう事で次回は大仏です。
 

 

つづく