日本200名城 №121 下総 本佐倉城 登城日:2017.11.12

城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 千葉輔胤
築城年 文明年間
主な改修者 千葉氏、後北条氏
主な城主 千葉氏、小笠原吉次、土井利勝
廃城年 元和元年(1615年)
遺構 空堀、土塁、虎口、郭
指定文化財 国の史跡
所在地 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉
今日最後の城は千葉の本佐倉城です。
以前に100名城の佐倉城を訪ねたとき、帰りに寄ったのですが場所が判りにくく、辿り着いた時にはもう日没だったので、殆んど見れてませんでした。

本佐倉城ちかく ナビが案内してくれたのが…この道です この城は道路がネックですね
本佐倉城は佐倉市の東隣りの酒々井町にありますが、この酒々井という名前が読めなくて、適当に『ささい』と覚えていましたが、本当は『しすい』なんです。 これは…読めないって!^_^;

でも入り口には、立派な駐車場が出来てました 車でしか来れない城ですからね
千葉氏は平安時代中期に坂東に下向した良文流平氏の一族で、その後上総の上総氏と下総の千葉氏に分裂しながら其々の国を支配しました。
両氏とも鎌倉幕府の成立に活躍し、上総氏は頼朝の命で早いうちに滅ぼされたのに対し、千葉氏は戦国期まで下総にその勢力を保持し続けて、最後は北条氏の滅亡に殉じています。

…と思ってたら、入り口に先客のレンタサイクルがありました(^-^;

千葉氏は千葉郡猪鼻の“亥鼻館”を本拠にしていましたが、千葉氏家中が安泰だった訳ではなくて、一族の内訌は絶える事なく、特に家臣の力が強かった様で、家臣の勢力争いに引きずられて、何度も嫡流が変わっています。
中でも享徳3年(1455)に起こった享徳の乱では、家臣筆頭の原氏が千葉一族の馬加氏(まくわりしですよ!)を焚き付けてクーデターを起こし、当主の一族を武蔵に追いやって、以後は馬加氏が千葉氏を名乗って嫡流となっています。
今回訪れた本佐倉城はその結果として築造された城なのです。

東山の郭 高さも角度もある立派な土塁です

郭上に登ると北側の領地が見えます 印旛沼は埋め立てでずいぶん遠のいています

場内の至る所にこの看板が設置されていて、現在地がよく判る様に工夫されてます
馬加氏の康胤はその時の千葉氏当主:胤賢の叔父にあたり、千葉郡馬加を領して地名の馬加氏を名乗っていました。
*現在の馬加(まくわり)は違う読み方をされると困るので、“幕張”と改めています
武蔵に逃げた胤賢の子孫は幕府に泣きついて、幕府は太田道灌や東常縁といった当代一の武将を差し向けて来たので、千葉氏は堪らず亥鼻館を棄てて、内陸の印旛郡酒々井に新城を築き、新たな拠点としたのが本佐倉城なのです。

Ⅳ郭と表記されてる上の郭です 普通に畑に見えてしまいますね
↓ 城山と表記されてる主郭 発掘調査の結果の構造物の看板がイッパイありますが…


こうゆう復元写真も掲示されていて、現場を見ながら脳内復元が可能です(同じ場所ですよ)
本佐倉城が築城されたのは文明12年(1480)の頃と考えられています。
本佐倉城が築城されたのは文明12年(1480)の頃と考えられています。
台地続きの崖端城だった亥鼻館に比べ、周囲を湿地帯に囲まれ台地を丸ごと城郭にした本佐倉城は、守るに易い城と言えるでしょう。
しかし、支配拠点としては課題があったのか、千葉氏は江戸時代に築城された佐倉城のある地に新城の築城を何度も試みていますが、
外敵の侵入や家中の騒動に邪魔されて、実現はしませんでした。

主郭は土塁が巻いていて、広さも充分ですね
↓ 主郭の先端には櫓があった様ですね


こんな感じの井楼櫓だった様です
ともかく千葉氏は此処で9代100年間にわたり所領を守って行くのですが、時は戦国の世で、小弓公方や安房の里見氏との抗争は激しく、後期には佐竹氏の侵攻も度々受けています。
千葉氏は北条氏と姻戚を結び、北条傘下に入り大きな後ろ盾を得る事で生き延びを果たしたのですが、相変わらず原家を中心とした家臣団が実権を握る家であり、千葉氏は飾り物に過ぎなかった感じですね。

奥ノ山から倉跡方面の平地 近年までは耕作地になっていたのでしょうが、これだけまとまった平地が必要という事は、根古屋も含めて場内に取り込んでいた…としか思えません

比高差は15m程度か

東光寺ビョウ(平)と呼ばれる北側の平場 数少ない根古屋スペースです

この辺りには矢竹が密生していました
何とか権力を取り戻そうとの気概を見せた26代当主の親胤は家臣の原親幹によって殺害され、29代:邦胤に至っては、年賀の席で放屁した家臣を叱ったところ、その恨みで夜に寝首を掻かれていますから、何とも軽い存在です。
100年間で9代も当主が替わった事実がそれを裏付けていますね。

本佐倉城と佐倉城を立体地図で見てみます 移転を画策してた理由を考察したかったのですが、致命的な事は気付きません。 酒々井の方がより湿地ですから、夏場は蚊が大量発生して大変だった…かな?
結局30代当主には北条氏政の子の直重が養子に入って継ぎ、北条の威光を以て君臣関係の正常化を試みるのですが、千葉氏独自の跡継ぎ擁立を企む家臣団に追い出されてしまいます。

最後はセッテイ山に登ります 堀は深さが10m近くあって幅も広くて、箕輪城みたいな感じがします

セッテイ山とカタカナ表記ですが、漢字で書けば“接待”である事が濃厚の様です
でも何故“タイ”を“テイ”と発音するのか? そんな方言なのかな?
例えば“絶対”が“ゼッテイ”だったり“交代”が“コウテイ”になったりで、『夜に接待するからね』が『晩ににセッテイするけんな』になった… あっ、広島だ(^-^;

しかし、現在のセッテイ山は“接待”したくないらしく、行く手を阻んでいました
そうゆう“設定”なのかな?
そうこうグダグダしてるうちに、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、千葉氏は北条氏とともに滅亡するのです。
一旦廃城となって破却された本佐倉城でしたが、江戸の外郭を押える要地である佐倉には土井利勝が配されます。
利勝は本佐倉城跡に入って藩庁を置きますが、同時に佐倉城の築城も進めていて、竣工した5年後の元和元年(1615)、本佐倉城は正式に廃城となりました。

帰りは別の道で帰ったら、拡幅工事をしていました。 来春からは楽にたどり着けそうですね。