日本200名城  №113  常陸  土浦城  登城日:2017.11.12
 
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 城郭構造    輪郭式平城
 天守構造    なし
 築城主     若泉三郎
 築城年     永享年間(1429年~1441年)
 主な改修者     松平信一・信吉、西尾忠照朽木稙綱・種昌
 主な城主    若泉氏、小田氏、松平氏西尾氏、朽木氏、土屋氏
 廃城年     1873
 遺構      太鼓櫓門、土塁、堀
 指定文化財     茨城県史跡
 再建造物    東櫓・西櫓
 所在地     茨城県土浦市中央
 
 
 次は常磐道で土浦まで戻り、土浦城を訪ねます。
土浦城は桜川が霞ヶ浦に注ぐ河口のデルタに造られた平城です。
そのせいか、徳川の治世に新たに造られた“取るに足らない平時の城”といった先入観を持っていましたが、訪城前の予備知識を集めて行く中で、興味深い事柄が幾つか出てきて、期待を持っての訪城になりました。
 
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平地にある土浦城は幾重もの水堀に囲まれた輪郭式の平城でした 右の櫓は復元の西櫓
 
 
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現存するのは本丸と二ノ丸の一部だけですが、往時の雰囲気は判りやすい城です
 
 個人の先入観はさておいて、土浦城の始まりは室町時代の永享年間(14291441)に南常陸の豪族:小田氏の属将だった若泉三郎により築城されたものだそうです。
  戦国時代に入ると、城主は同じ小田氏の武将:菅谷氏が務めていました。
小田氏は南朝方として名門の豪族で、小田城(つくば市小田)を本拠にしていましたが、戦国時代が進むと北部の佐竹氏や新興の後北条氏に次第に圧迫されだし、上杉謙信の関東侵攻を契機に佐竹氏に小田城を奪われて土浦城に退くと、ほどなく佐竹氏への臣従を余儀なくされます。
 
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堀の内側には土塁が盛られて、高低差を造りだしています 天守は最初からありませんでした
 
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現存遺構の霞門と復元の東櫓 櫓内は資料館になっていて見学できます
 
 天正18年(1590)の秀吉の北条征伐では、佐竹氏に従い豊臣方についた小田氏でしたが、家臣の菅谷氏は独断で北条方に奔った為、土浦城には佐竹、徳川の軍が攻め寄せて、小田氏は滅亡してしまいます。
 
 旧北条領が德川家康の領地になると、土浦は養子に入れていた結城秀康の領地に加えられ、土浦城は結城城の支城の位置付けになりました。
 
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが終わると秀康は結城10万石から越前北ノ庄68万石へ大幅加増移封されます。
 
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資料館にあった書籍を撮らせて貰いました
 
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復元イラストもありました
 
  その後の土浦には笠間同様に土浦藩主としての以下の中小の大名が出入りし明治維新を迎えます。
しかし笠間に比べ在任期間は長かった為、各大名も本腰を入れ、土浦城と城下は徐々に近世城郭へと生まれ変わって行った様です。
 
松平家(井)  代  19年  3万5千
西尾        代  30年  万石
朽木        代  1年  3万石
土屋家        代  13年  千石
松平(大河内)   代   5年  5万千石
土屋家     10代 180年  5千→9万5千石
 
 
 中でも大河内松平家の時には、各城門の形式が全面的に見直され、平時にありながら土浦城は城郭としての防御能力を飛躍的に向上させています。
 
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現代の地図に重ねた城の縄張り図を見てビックリ! なに?この馬出しは!
 
  松平家の当主:信興はなんと伊豆守信綱の五男で、若年寄を務めていましたが、土浦藩主になると家臣の山本菅助晴方に命じて、主要な城門を“馬出し”のついた武田流に改変しています。
 
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特にこの真鍋口の連続丸馬出し… まるで高度な戦国の城です
 
 この菅助は武田信玄の軍師だった山本勘助晴幸の四代後の子孫で、信興は兵術指南、築城奉行として家臣にしていたそうです。
“城とは本来かくあるもの”といった信念の様なものを感じますが、あの父親が居たからこそ可能になった事ですね。
 
 
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東櫓二階からの内堀と二ノ丸の眺め
 
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同じく東櫓から霞門の外側を見ます 外枡形になっていますね
 
 松平信興が大坂城代に転出すると武田流に改造された土浦城に入って来たのは土屋政直でした。
政直は駿河田中藩を挟んで土浦藩へは加増での復帰になるのですが、武田流の城と土屋家って、なんだかシックリ来ませんか?
そう、この土屋家とは土屋昌恒の子孫なのです。
 
 
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東櫓の南側には土塁も復元されています 武者溜まりも広く取ってあります
 
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土塀には鉄砲狭間と石落としも…
 
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狭間はちゃんと堀の水際に角度を合わせています 百名城でも適当に切ってあったり、狭間の無い土塀が多い中で、キチンと造られていますね こういう復元に出会えると本当に嬉しくなります
 
 9月に甲斐を訪ねて武田勝頼の最期をレポートした時に、土屋昌恒はたくさん出て来ました。
あの時は徳川家康が妻子を探し出し、阿茶の局に養育させて久留里藩主にしたところまで書きましたが、その後はこうなっています。
 
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 家康に召し出された昌恒の遺児は秀忠の小姓になって、諱名を貰って忠直と名乗り、元服した後は久留里藩2万2千石の藩主になります。
 忠直の跡を継いだのは長男の利直で、その子孫が久留里藩主を継ぎますが、次の直樹の時に“狂気”を理由に改易となりました。
 理由の詳細は不明ですが、子の夌直にはかの土屋昌恒の直系子孫を理由に3千石が与えられ、高級旗本として家名存続が許されてます。
やはり、戦場での武士の死に方って何代も後まで影響するから大事ですね^_^;
 
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最後の狭間はやけにデカイのですが… 大筒(大砲)の狭間だそうです
 
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これも現存遺構の太鼓櫓門 ちょっと頭デッカチで頼りない感じにも見えますが…
 
*この土屋家の江戸屋敷は本所松坂町にあり、吉良義央の屋敷と隣り合っていたため、忠臣蔵の映画などでは必ず名前が出て来ます。
 
 
 
 利直の弟:数直は秀忠から家光付きを命ぜられ、幼い頃から近習として奉公しました。
ですから幸運な事に、“春日局ファミリー”に入った訳ですね。
数直は主に家光の次の家綱のブレーンとして活躍し、老中となって4万5千石の土浦藩主になり、この家系が大名:土屋家を明治維新まで繋げて行くのです。
 
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外から見た太鼓櫓門はドッシリ頑丈そうに見えますね
 
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この高麗門は城下に出る前川口門の現存遺構で、民間に払い下げられてたのを二ノ丸御門の位置に再移築しました
 
 数直を継いだ政直は江戸詰めの父に代わり若くして藩政を仕切っており、とても優秀だった様です。
藩主を継承するとトントン拍子で昇進し、綱吉~吉宗の4代の将軍に老中首座として仕えており、石高も9万5千石に倍増させています。
 しかし政直の後の藩主は虚弱で早世する場合が多く、老中まで上がる藩主は出せていません。
9代と11代藩主は水戸藩からの養子で賄ってるため、残念な事に土屋昌恒の血は絶えてしまった様ですね。
 
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城の前面の霞ケ浦は波もなく鏡面の様で、水もきれいでした