日本200名城 №112 常陸 笠間城 登城日:2017.11.12

城郭構造 山城
天守構造 不明(二重?)
築城主 笠間時朝
築城年 承久元年(1219)
改修者 蒲生郷成
主な城主 笠間氏、宇都宮氏、蒲生郷成、牧野氏、井上氏、浅野氏など
廃城年 明治4年(1868)
遺構 空堀、石垣、土塁、井戸、移築櫓・門
指定文化財 なし
所在地 茨城県笠間市笠間佐白山

良く晴れ上がった晩秋の日曜日、久々の遠出です。
筑波山を左手に見ながら辿り着いた先は…

播州赤穂? まさかね(^-^;
ここは常陸の笠間。
赤穂藩で知られた浅野家は、笠間藩に居た時期がある様で、筆頭家老:大石家の屋敷跡が残っているのです。
…という事で、今回は日帰りで東関東にある日本200名城のうち未訪の3城を訪ねます。
まず最初は常陸笠間城。
続百名城に選ばれた城ですが、以前、宇都宮に住んでた時にはすぐ近くなのに洩らしてましたね(^-^;

鎌倉時代、笠間の地は寺領が多く、僧門同士の争いが絶えない状態でした。
中でも正福寺と徳蔵寺の争いは熾烈で、劣勢だった正福寺が下野守護の宇都宮氏に加勢を要請した事から、武門の介入を招いてしまいます。

山上のお城近くにも駐車場があって楽に登城出来そうですが、下屋敷(居館)跡を観てから登城路を防御遺構を観ながら歩く事にします
宇都宮頼綱は家臣の塩谷時朝を派遣して、時朝は駐留のために笠間の東の佐白山の山麓に城館を建てると、ここを拠点に腰を据えて徳蔵寺方を攻め、滅ぼしてしまいます。
ところが、この過剰な加勢に危機感を覚えたのは依頼主の正福寺で、関係は悪化します。
すると時朝は当然のように正福寺をも攻め滅ぼし、笠間を我が物にしてしまいました。



宇都宮頼綱は新たに得た笠間の領地をそのまま時朝に与えたので、時朝は姓を塩谷から笠間に変え、佐白山山頂に城を築いて支配を始めたのが笠間城の始まりです。
以後、戦国時代を通じて宇都宮家臣として8代にわたり笠間を治めた笠間氏でしたが、天正8年(1590)の秀吉による小田原征伐の際に、笠間綱家は主の宇都宮国綱と諍いを起こしてしまい、戦後に宇都宮勢に攻め込まれて笠間氏は滅亡しました。

登り口に着きましたが、これ搦め手口かな? 遊歩道もいっぱいある様です

10分ほど登ったら、本丸に着いてしまいました。 途中に何かあったかなぁ?(*_*;

しばらくは宇都宮氏の代官支配となりましたが、1597年に宇都宮氏は改易となります。
替わって宇都宮に蒲生秀幸(氏郷の嫡男)が移封して来ると、笠間も蒲生領となり、笠間城主には家老の蒲生郷成が入りました。
笠間城の山上の郭塁が格段に強化され、天守周辺に石垣が施されたのはこの蒲生氏の時代と言われます。
判りやすい、説得力のある説ですね。


関ヶ原の戦いが終わると、徳川体制の中で蒲生氏は再び会津に復帰し、笠間には以下の様に中小の大名が笠間藩主として頻繁に入れ替わる時代が続きます。
松平家(松井) 1代 7年 3万石
小笠原家 1代 1年 3万石
松平家(戸田) 1代 1年 3万石
永井家 1代 5年 3万2千石
浅野家 2代 23年 5万4千石
井上家 2代 47年 5万石
本庄家 2代 10年 4万石→5万石
井上家 3代 25年 5万石→6万石
牧野家 9代 124年 8万石
平和な江戸時代に残った戦国の山城は何処でもそうですが、比較的早期に山麓の根古屋部分に藩庁や屋敷の住機能が整備され、山上の城郭は廃れてしまいます。
笠間城も浅野家の頃までにはそうなっていた事でしょうね。

天守のある郭は本丸から堀を隔ててさらに登って行きます 石垣造りに変わりますね

打ち込み接ぎの石垣を折り返しながら登ります

ん? ちょっと雑な積み方ですね(^-^;

天守台に建つ佐志能神社社殿 これは、一度崩れたのをキチンと補修せずに建ててますね。 社殿の材料は天守の再利用だそうです
浅野家といえば、赤穂藩に転封したのは2代:長直の時で、1645年の事です。
松の廊下の内匠頭長矩はその2代後の藩主で、刃傷事件が起こったのは1701年の事ですから、1667年生まれの長矩も、1659年生まれの大石良雄も笠間で暮らした事はありませんでした… 残念!

城下は木が生い茂って見えませんが、北側は拓けています 比高差は約150m

此処も石材の運搬が大変だったろうな…と思っていたら、意外にも山上にゴロゴロしています
古い地層だと浸食で高い部分に岩石が残るのは自然の理ですね 石垣の材料は現場調達でOK
そして最後の藩主となったのは牧野家で、9代続いて明治維新を迎えます。
あれ? 維新の牧野家といえば河合継之助が家老の長岡藩では? …と思ってしまうのですが、こちらは別の牧野家です。
では分家か? と言えばこれまた難しくて、嫡流の牧野家が長岡藩主になった時、弟の儀成は5千石の旗本に取り立てられ、幕臣になりました。
つまり、領地も家臣も分与されていない、全くの別家となったのです。

下城路は車道を使って降りて行きます
広葉樹が密生した山だから、木の高さが凄い事になっていて、アマゾンのジャングルを思い出します

正規の駐車場は“千人溜り”と呼ばれる馬出しの郭に造られていました
その子の旗本:牧野成貞は家光の子:綱吉が舘林藩を立藩する時に家老となりました。
その綱吉が将軍になると、成貞も譜代大名の列に加わり、重用されて最後には側用人という要職に就き、権勢も石高も本家の長岡藩を凌ぐ様になってしまったのです。
そうなると、越前松平家の様に嫡流争いが起こっても不思議ではないのですが、笠間牧野家の栄達の陰にはいろいろありまして…。
笠間藩ではあくまでも長岡藩牧野家が宗家という姿勢を最後まで貫いて、無用な騒動を回避していた様ですね。

維新の戊辰戦争にあたって、牧野家では長岡6万石の藩主と笠間8万石の藩主が方針を決めるべくTOP会談をしたそうです。
しかし、恭順を強く勧める笠間藩主に対し、佐幕の急進派だった長岡藩家老の河合継之助が“言わなくても良い事”を口走ってしまったため、会談は物別れに終わりました。
さすがにバツの悪い長岡藩主は河合を蟄居謹慎処分にしたそうです。

もう麓近くに『九ちゃんの家』というのがありました
戦時中に坂本九さんが疎開していた家だそうで、幼い九ちゃんは母親が仕事から帰ってくるのを独りで星空を眺めながら待っていたんだそうです。
星空の歌が染みるのは、その時の哀しい寂しい気持ちを込めてたからなんでしょうか?