今年の川越まつりには出て来ませんでしたが、川越には平安~鎌倉時代に活躍した『河越太郎重頼』という武将が居て、山車もあります。
今回はその河越氏の話です。
 
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河越太郎重頼の山車(観光HPより借用)
今回は曳行はありませんでしたが、川越の山車で唯一大鎧に身を包んだ武者人形です

 
 現在の埼玉での住まいから1.5km 徒歩20分ほどの距離にあるのが平安~室町期に武蔵国で活躍した河越氏の館跡です。
おそらく一番近い城址(城機能があった)ですが、国の史跡に指定されていて、史跡公園として整備されています。
 
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河越氏の誕生と役割
 河越氏は、代表的な武蔵平氏の家(秩父氏)で、分家に小山田氏、畠山氏などが分出します。
その秩父氏がなぜ河越氏なのかと言うと、嫡流の秩父氏は元々秩父の吉田城(埼玉県秩父市吉田町)を拠点にしていました。
 秩父氏には、三代:重綱の頃から武蔵国留守所総検校職(国司の代理)の役割が与えられ、代々世襲して行くのですが、武蔵国一円に勢力を及ぼしながら管理して行くには秩父は地の利が悪い為、五代:秩父能隆の代に秩父盆地を出て武蔵国入間郡葛貫(埼玉県毛呂山町)へ拠点を移し、葛貫氏を名乗ります。
 
 葛貫能隆の嫡子の六代:重頼はさらに中原へと進出し、入間郡上戸に城館を構築して本拠とし、その土地を河越と命名して、河越重頼と名乗ったのが河越氏館ひいては川越市の始まりです。
この地には祖父の重隆の頃から小規模な城館があり、それを拡張したものの様ですね。
 
 
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 秩父氏の支族はその間も拡散を続け、 江戸氏、蒲田氏、六郷氏、豊島氏、渋谷氏、葛西氏、赤塚氏、志村氏、板橋氏、練馬氏、吉見氏などが分家します。
現在の地名にもそのまま当て嵌まる氏族名で、武蔵一円に強い影響力を持ってた事が判りますね。
 
 これに武蔵七党と呼ばれる国人衆が加わって、武蔵の在地勢力はこぞって河越重頼の判断に従ったと言いますから、平安末期~鎌倉期の川越は武蔵国の中心地だったのですね。
 事実、国府が廃れたこの時代、国の有力者(留守所総検校職)の館は国衙の機能も果たしたそうですから、そうした役所機能もあった様です。
 
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 さて、この時代の河越重頼を中心とする武蔵国武士団の動向ですが、保元元年(1156)、源氏と平氏が入り乱れて天皇方と上皇方に分かれて争った保元の乱では天皇方の源義朝に従い、勝ち組になっています。
 
 そして、3年後の源氏と平氏が争った平治の乱では、平氏の一族でもある事からか源義朝の求めには応じず、中立的な立場を守っています。
 戦いは平氏側が勝利し、清盛の一族主体の“平家政権”ができて、武蔵の国司も平知盛になり、重頼はこれに従う事となります。
 
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館跡の史跡整備は広大ですが、肝心の居館跡の半分は既に小学校の敷地の地下でした
 
 
源頼朝との不運な関係
 この時、源義朝の嫡子:頼朝が伊豆に配流され、頼の乳母だった女性も夫の比企掃部允が武蔵の代官になった事から武蔵に越して来ます。
 俗に“比企尼”と呼ばれるこの乳母は領地の比企郡から仕送りをして頼朝を支えますが、何分財力にも限りがある事から、三人居た娘を関東の有力者に嫁がせて、手伝いさせる事を考えます。
 長女は武蔵足立郡の安達義盛に、三女は伊豆の伊東祐清に、そして次女を娶ったのが河越重頼でした。
 
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館跡は発掘調査した後に埋め戻されていますから、目に見える遺構は多くはありません
 
 この三家の支援は20年に及び、治承4年(1180)の挙兵へと繋がって行くのですから、比企尼の日本史に果たした役割は大きいと言えます。
 
 頼朝の挙兵当初は畠山重忠の要請もあって平氏の追討側に与した重頼でしたが、比企尼の懇願があったのか、逆に畠山重忠を説得し、秩父一族こぞって頼朝に転じています。
 武蔵の武士団の力を得た頼朝は喜んで、重頼の妻(比企尼の娘)を嫡男:頼家の乳母に選んでいます。
 
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北西部分には外郭の土塁が一部残っています
 
 その後、重頼と武蔵の武士団は源義経に付けられ、源義仲追討~平家追討へと壇ノ浦まで遠征して戦います。
 義経の大活躍はよく知られていますが、その主力が河越重頼を中心とする武蔵武士団だった事は、あまり語られませんね。
 
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居館の周囲の水堀跡は判る形で工夫されています
 
 義経が京に凱旋し、独自に朝廷とやりとりする様になると、鎌倉の頼朝との仲が険悪になって行きます。
その中、頼朝は重頼に娘を義経に嫁がす様に命じました。
 
 新たに義経の舅となった重頼でしたが、頼朝との関係を修復するには至らず、義経の暴走を許してしまう結果となり、後日に重頼は嫡子の重房ともども頼朝の命で誅殺されてしまうのです。
 
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居館の井戸は大きめに掘り下げた後、井桁に木枠を組んで、余った外側の空間を埋め戻すという凝った造りでした
 

 また頼朝の冷血な面を見る様ですが、頼朝の視点で見てみると、義経の働きは評価に値するものの、平家滅亡が少し早まっただけの効果です。
 頼朝の源氏政権として見た時、今後朝廷と“条件交渉”して行く矢先に、若輩の義経が独自に朝廷と交渉する事自体が赦される事ではなく、弊害にしかなり得ないのは明白です。
 
 
 何とか止めさせたい(助けたい)のですが、軍監として付いてる梶原景時は義経の非を訴え煽るのみで、役に立たない
そんなジレンマの出口を重頼に期待したのではないでしょうか?
 
 義経の暴走は若さからの無知ゆえの事で、分別のある大人が近くで適切にアドバイスすればという一縷の望みを重頼に託したのだと思われます。
 
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居館の北西角には塚があって、たくさんの骨壺が出土したそうです。納骨堂の跡か
 
 それが判らない重頼ではなかったと思いますが、前線で明日をも知れず命を張ってる将士達の気持ちも理解でき、安全な後方でつべこべ言うだけで、眼に見える評価をしない頼朝に多少なりとも思う所は有ったと思います。 
 
 そして嫡子の重房までもが義経の軽さに載って任官してしまうに至って、もうどうにもならなかったのでしょうね。
この辺りが後白河法皇の老獪さ、凄みでもあるのですが
 
 関東の武士団の連合体の上に立ってる神輿である頼朝は、彼らの手前“泣いて馬謖を斬る”しかありませんでした。
 
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館跡は入間川の北岸にあり、現在の川越市街は対岸になります
 
 この時、重頼は兵糧代として与えられていた伊勢国の三郷を取り上げられ、替わりに大井實春に与えられています。(あっ、これ春日部家と繋がるかも!)
 しかし、河越の本領に関しては河越尼(重頼夫人=比企尼の娘)の預かりという超寛大な処置にして、後に二男の重時が継承して河越氏は存続して行きます。
 
 後日、河越尼に会った頼朝は、重頼のことは、誠に憐れな事であった…』と涙ながらに謝ったといいます。
 一旦畠山重忠に移された武蔵国留守所総検校職も、弟の重員の時に戻されて、河越氏はその後も有力な鎌倉御家人として幕府を支えて行くのです。
 

 

 なんか、頭脳明晰でやるべき事の道筋が脳内で描けており、次々に指示を出すものの、それを実行する家来が咀嚼できず付いて行けてない部分で悲劇が起こる
織田信長に通じる部分ですが、本質のところでは精一杯の情も示す、頼朝という人間が少し垣間見えるエピソードですね。
 
 
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源頼朝、源義経画像


 

河越氏その後の興隆と没落
 源氏が滅びた後は北条得宗家とも上手くやって行った河越氏は、幕府滅亡の間際まで有力御家人の一人であり続けます。
 新田義貞の旗揚げがあったのは7代:高重の時でしたが、流れを読んだ高重は新田軍に加わり、倒幕に一役買って室町時代へ生き残りを果たします。
 武蔵国留守所総検校職という役割は無くなりますが、秩父氏同族の畠山国清が関東管領に就任すると相模国守護になっていますから、守護代程度の待遇は受けていたのでしょう。
 
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敷地内にある常楽寺は河越氏の持仏堂が発展したものだそうです
 

 しかし、畠山国清が失脚し関東管領が上杉顕憲に移ると、平一揆(平氏系氏族の共同体ネットワーク)の勢力削減が活発になり、河越氏も相模守護職を取り上げられてしまいます。
 河越氏の当主が8代:直重に代わると、将軍:義詮と鎌倉公方:基氏が相次いで死去し、政治的空白が生まれます。
 この機に乗じて上杉顕憲が平一揆潰しを加速させると、直重はじめ関東の平氏系支族は堪らず蜂起して戦乱になります。 
 
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時宗の寺院だから菩提寺ではありませんが、重頼の供養塔がありました。 義経と嫁いだ郷御前も一緒ですね。京姫となってるのは嫁いだ先が京だったから…ですね。
 

 一揆勢の旗頭は河越直重で、激戦になります、上杉顕憲が幕府を味方に付けて、他国の守護大名が加勢に駆け付けると一揆勢は次第に劣勢となり、最後は河越館に籠って防戦するも叶わず、河越氏一族は伊勢の南朝勢力の国司:北畠氏を頼って落ち延びました。
 ここに300年あまりに亘り武蔵国を支配した河越氏は滅亡し、やがて伊豆、相模、武蔵、上野と上杉氏の支配体制が確立して行くのです。
 

 

 
 伊勢に逃れた河越氏のその後は今後(来春以降)の調査になりますね。
伊勢(三重県)にも川越という町があり、町名の由来はHPでは“川をはさんだ多数の町村合併”としていますが、関連するかも知れません。