【武田八幡神社】
 武田信義の館跡と菩提寺:願成寺を訪れた後は、背後の山陵にある氏神の武田八幡神社に向かいます。
からは西の山塊に向かう1kmあまりの道が真っすぐに延び、緩やかに登って行き、途中には木造の立派な鳥居(二ノ鳥居)があります。
 鳥居を潜って真っすぐ登ると、突き当りに神社の玄関である随身門があります。
門を潜り長い石段を登ると広場になって神楽殿、さらに石段を登って拝殿、そしてまた一段上に本殿と続きます。
 
イメージ 1
木製のとても立派な鳥居です 駐車場があるのでジックリ見れますよ
 
 
 この神社の始まりは古く、弘仁13年(822) 嵯峨天皇の勅命により豊前の宇佐八幡宮より分霊を受け勧進したのが始まりだそうです。
 この地に土着した信義は、荒れていた神社を武田家の氏神として手厚く庇護し、新たに京の石清水八幡宮を勧請して再建整備したといいます。
 
イメージ 2
突き当りに見える随身門 左に曲がると駐車場になっています
 
 これは武田家代々の当主にも引き継がれ、晴信(信玄)も嫡男:義信と連名で社殿の建て直しをしたという文書もあるそうです。
 
 武田家滅亡後、これを引き継いだのが徳川家康で、甲府代官:平岩親吉に命じて大規模な造営を行なっていますから、天正壬午の乱に何らかの改変が加えられてたのかも知れませんね。
 
イメージ 3
石段の上に見えてる神楽殿
 
 徳川家は以後の大名に対しても神社の保護・修築を命じています。
中でも熱心だったのが1701年~1724年の間に甲府15万石の藩主だった柳沢吉保で、武田八幡宮だけでなく恵林寺の整備にも積極的で、信玄の二男:海野龍芳の子孫を高家旗本で取り立てるなど、武田家と旧臣の復権にずいぶんと骨を折っています。
 
イメージ 4
さらに登ると拝殿があり…
 
 柳沢吉保といえば水戸黄門などでは悪代官の黒幕みたいに描かれる事が多くて、一般のイメージは良くないのですが、悪徳商人にお主も悪よの~ぅなどと言いながら懐に入れた賄賂は武田家の為に使ってた事になりますね^_^;
 
イメージ 5
最後の本殿は檜皮葺の本格的な歴史を感じる建物で、重文だそうですよ
 
 冗談はさておき、実はこの柳沢家は先祖を辿ると武田信義の長男だった一条忠頼を祖とする、武田家の支族なんです。
しかも、武川衆と呼ばれた釜無川右岸を領地としていた家臣団の一家で、謂わば父祖の地を領して旧主君の恩に報いる活動をしていた訳ですね。
TVの演出はともかく、とても有能で甲府城の改修など見ると武将としても立派な大名だったと思います。
 
イメージ 6
BS-TBSでやってる『新水戸黄門』より  徳川光圀と柳沢吉保
吉保さん、しっかり花菱紋で武田旧臣を主張してますね。 ありゃ、黄門様まで武田さんだ!
 
 
 八幡宮ですから、東照宮や天神宮みたいな朱塗りの建物ではなく、木地を活かした寺院に近い建物がイイですね。
歴史がある分宮域の神木も大きく、鬱蒼とした雰囲気があって、参拝者もほとんど居ない静寂の中に、武田家歴代の霊魂が漂っていそうな雰囲気を醸しています。
 
 
イメージ 7
武田八幡神社に隣接してある為朝神社
 
 
 武田八幡宮に隣接して為朝神社というのが有ったので行って見ます。
あの為朝が?と不審に思いながら行って見ると、やっぱりあの為朝でした。
なんで為朝が武田の地に…』と繋がらなかったのですが、どうも伊豆大島から密かに脱出して甲斐に潜入し、信義に保護されてこの地で生涯を終えた伝承があるんだそうです。
 
 為朝とは源為義の八男で、頼朝には叔父にあたる人ですね。
とにかくとんでもない暴れん坊で、いろいろ罪を犯しては僻地に配流されるのですが、その地の監視の役人をもいつの間にか従えて暴れ回り、九州に配流された折は九州全土を斬り従えた事から鎮西八郎を名乗ったそうです。
 
イメージ 8
中を覗いて見ると、為朝さんが座ってこちらを睨んでました
身長2m以上、5人張りの強弓を使い、平治の乱では一射で二人を射抜いたそうで、誰もが為朝と戦うのを嫌がりました
 
 最後は伊豆大島に流されますが、当然、すぐに伊豆諸島すべてを我が物にしたと言いますから、中国の架空の物語にも登場しない程の豪傑ですね。
甥にあたる源義経は本当は義朝の八男でしたが、為朝のイメージがあまりに酷いので、敢えて“九郎”を名乗ったほどでした。
本当に規格外の面白い男なので、気になる方はぜひWikiって見てください^_^;
 
 

 

【白山城】
 
 最後最後に、白山城址へと向かいます。
白山城址は武田八幡神社から一つ谷を挟んだ南隣の尾根の先端にあります。
武田八幡神社から直接登れる遊歩道もある様ですが、車での移動だと山裾の集落を抜けて、“白山神社”を目指します。
 
イメージ 9

白山神社 この神社の山にあるから白山城と、後世になって呼ばれた様ですね
 

 神社も含めて、山裾には野生動物が降りてこない為のフェンスがグルリと設えてありますが、神社の石段が始まる場所にゲートがあり、奥へ入りたい人は自由に開けて入る方式になっています。

 

 この時は幸い、草刈りをしている地元の方が居て、解放状態でした。
なんでも来週末が白山神社の祭禮なんだそうで、その準備ですね。
城址はヒルがたくさん居るから気を付けてね!と見送ってくれました^_^;
 
イメージ 10

本殿は綺麗な建物です
 

 神社の長い石段を右手に見ながら車道を少し登ると、駐車場に到着します。
もう社殿まで至近距離です。

 

 この神社、正式には“白山権現”だそうで、北陸の白山の山岳信仰に根ざした神社の様ですね。
江戸時代は近隣の神社では一番高い社格を持っており(武田八幡神社より高い!)、地元の信仰を集めたそうですが、その頃に武田信義がこの地に来た時にはすでに有った工作が成された様で、武田菱に繋がる“菱形岩”の伝承もあるそうですよ。

 

 
イメージ 11

神社の脇から始まる登城路は急坂ですが、距離はありません
 

 白山神社の本殿南側に登城路があり、それを登って行くと10分ほどで頂上の主郭跡まで到達できます。
 
イメージ 12
 
イメージ 13
まだ低い位置にある“侍屋敷”と呼ばれる平坦地 後世の改変跡と思われます
 
イメージ 14
二ノ丸はオープンな郭ですね
 
イメージ 15

二ノ丸と本丸の間には堀跡が… これも珍しい
 

鎌倉前期の城跡をイメージして登って来ましたが、その後も改変が加えられた様で、信義の詰め城にしては規模も大きく思われます。
堀を多用し、横矢構造の距離感など見る限り、明らかに戦国中期の城構造ですね。
 
イメージ 16
二ノ丸から本丸へ ヒルは居ないけど、野生動物の巣穴が(^-^;
 
イメージ 17
本丸は詰め城にしては広く、土塁が巻いて堅固です
 
イメージ 18
本丸から三ノ丸へ 大手虎口でもあります
 
イメージ 19

三ノ丸への土橋 三ノ丸もオープンな郭です
 

 信義から信光に代替わりし、拠点が甲府盆地中央部の石和に移ると、親族である武川衆の青木氏が管理し、後にその支族の山寺氏が守ったそうですが、勝頼の新府城の支城して考えると、攻囲軍の背後を脅かす絶好の位置にあると言えます。
 
イメージ 20
綺麗に遺る長い竪堀
 
イメージ 21
木立の枝や雑木がキレイに刈り払われて、遺構が見やすい整備がなされていて有難い事です

でも切った枝を集めて堀に入れるのは止めにして貰わないと…立派な竪堀が埋まっています
 

しかし時代背景から考えられる改変、特に鉄砲対応は十分でなく、今後整備して行く前の新府城放棄だった様にも思われますね。
 

甲斐路シリーズ、これにて終了です。