甲信越の城  山梨県  白山城    登城日:2017.9.23
 
 
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  城郭構造       山城
 別名       鍋山城、要害城
  天守構造      なし
  築城主         武田信義
  築城年         平安末期~鎌倉初期
  主な改修者   徳川家康(?)
  主な城主      武田信義、青木氏、山寺氏 、徳川氏(?)
  廃城年         1584年頃
  遺構            土塁、堀 、土橋、竪堀など
  指定文化財   国の史跡
 
 
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 甲斐で武田氏を正式に称したのは武田信義ですが、武田氏が甲斐に土着したのは2代遡る源義清が最初と言われています。
義清は常陸国那珂郡武田郷を領して“武田冠者 源義清”と称していましたが、常陸国内での争いに敗れて甲斐国へと配流されました。
巨摩郡平塩(現:市川三郷町)に館を構えて落ち着いた義清でしたが、次の義光の代になると八ヶ岳南麓の巨摩郡逸見へと移って若神子城を築き本拠にしています。
 
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 清光の子供達は分家して甲斐の各地に土着し、甲斐源氏による支配圏を形成して行きますが、その中で二男の信義は巨摩郡の中部まで南下した釜無川右岸域に土着して、この土地を祖父の常陸での所領名だった“武田郷”と定め、自らの姓も武田信義と称しました。
こうした経緯で甲斐武田氏の始祖は信義となるのです。
 
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初代:信義の館跡から見る17代:勝頼の新府城址
 
 
 信義は甲府盆地を見下ろす釜無川の段丘上に居館を構えます。
背後の鍋山には詰め城となる白山城を築くと、京の石清水八幡宮を勧請して氏神:武田八幡宮を創建して、菩提寺:願成寺も開基しした
これらは現在も営々と機能しており(白山城のみは史跡として)、さながら武田ワールドを構成しています。
 信義は此処を拠点に甲府盆地を平定し、源平合戦で活躍して、“武田氏=甲斐源氏の棟梁” の地位を確立して行くのです。
 
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館跡から武田神社へ 参道が続きます
 
 
 まず、これらの旧跡を順次訪ねて、最後に白山城址に登ります。
 
 
 
武田信義館跡
 信義の館跡は釜無川に面した最後の段丘の上にあります。
後世の堤防の築造で川までは300m余りあり、眼下には田園風景が広がりますが、当時は一面の氾濫原だったでしょうね。
 
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館跡は畑の真ん中にあり、歩道のみのアプローチになります。駐車場もありませんから、願成寺から徒歩で。
 
 館は2本の小川の浸食で出来た舌状台地の先端にあり、城の縄張りのカテゴリーで言えば“崖端城”となりますが、当時の戦いのスタイルから見て、城機能を持った館であったとは思えません。
前面の主要街道(郡西路)を押さえ、小規模な戦闘にも耐えうる後ろ堅固な館がコンセプトだったと思います。
 
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館跡は小公園ぽく整備されていますが、明確な遺構はありません。

 

 

 

源平富士川合戦の真実
 富士川合戦とは源平の主力が最初に戦った戦闘で、源頼朝率いる源氏軍が兵力が圧倒的に不利な中、朝駆けで奇襲を掛け、源氏軍の渡河に驚いた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を大軍の襲撃と勘違いした平家軍は我先にと逃げ出し、源氏が勝利した
、確かそう習いましたが、これは後の鎌倉幕府の記録書吾妻鏡の記述によるもので、実際の展開はかなり違った様です。

 

 話は平安末期、以仁王の“令旨”にまで遡ります。
平家追討の令旨を受けた諸国の源氏一族は、それぞれ個別に旗揚げ蜂起し、地場の平家勢力と戦います。
代表的な勢力が伊豆の源頼朝や信濃の木曽義仲であり、甲斐の武田信義もその一人でした。

 

 信義は甲斐の源氏勢力を纏めると駿河へと討って出て、平家の目代を追放していち早く駿河を占領しました。
 これに対し平家側は平維盛を総大将に追討の軍を送って来ますが、兵の徴集が思うにまかせず、富士川西岸に布陣できたのは僅かに4千だったそうです。

 

 これに対し信義は頼朝と連合してあたる事とし、2万の兵で甲斐を出ます。 
頼朝も南関東の動ける兵をかき集めて鎌倉を出発し、両軍は黄瀬川(静岡県三島市辺り)で合流し布陣します。 
頼朝軍も甲斐源氏勢と同等かやや多めで総兵力は5万程度と思われます。

 

 軍議で先陣は甲斐勢となり、信義は富士川東岸へと兵を進めます。 布陣してみると、平家勢が意外に小勢なのが判ります。
戦力差は歴然で、各地から徴収した寄せ集めの平家勢の中には逃げ出す兵も出始めたので、信義はこの機を逃さじと渡河を始めた所平家勢は総崩れで退却を始めました。
 平家勢は戦力的に不利を見て、伊藤義清の判断で一旦遠江まで退いて態勢を立て直すつもりだったそうですが、信義の弟:安田義定に追われて遠江で踏み止まる者もなく、尾張近辺まで逃げ去りました。
 こうして実際には甲斐源氏勢はなんと単独で平家の追討軍を打ち破り、駿河から遠江まで勢力圏を拡げたこれが富士川合戦の真実なのです。

 

 一方の頼朝勢は富士川から20km後方の黄瀬川陣からまだ動いていなかった様です。
朝は平家勢を追って自らも西上するつもりでしたが、後方の北関東の敵対勢力も気になり、甲斐源氏にも遠慮して鎌倉引き揚げ、しばらくは地場の関東全域の平定に専念しました。

 

 この時点で平家や朝廷の筋では、旗揚げした源氏の勢力を三つと認識していて、源頼朝の鎌倉勢、木曽義仲の信濃勢、そして信義の甲斐勢があり、この先どの勢力が源氏を束ねて行くのか絞り切れていなかった様です。

 

 保元・平治の乱で義朝が束ねたから、頼朝が嫡流という見方もありますが、いずれも頼義から派生する同族で、信義は1世代前の“叔父”の立場がアドバンテージになりますから、誰が源氏の棟梁になっても可笑しくない状態だったんでしょうね。
 しかしこの先、分母として絶対多数の関東を押さえた頼朝が圧倒的な兵力を得て、源氏の主力となって行くのです。

 

 

 

菩提寺:願成寺
 願成寺は信義が開基した菩提寺で、館跡からは谷ひとつ隔てた南側の台地の先端にあります。
 
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駐車場は台地の下にあるので、石段を登ってお参りします
 
 創建時は天台宗の寺院でしたが、頼朝の甲斐源氏粛清の嵐の中で廃れ、戦国期になって武田信玄によって再興されますが、その時には臨済宗に改宗して、武田一族の者が住職を務めた様です。
 
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信義の墓は綺麗に整備され、手入れも行き届いています。
 

 武田氏滅亡後の天正壬午の乱で焼失し、廃寺となりますが、江戸後期に曹洞宗の寺院として復活し、現在に至っています。
此処には信義の墓と伝わる五輪塔があり、周辺は綺麗に整備されています。
 宗旨は違えども武田氏の始祖として、周辺に帰農した武田旧臣の子孫の手で連綿と供養されて来た様ですね。
 
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有能な家臣の活躍でのし上がった武田家。 この気持ちは欠かせませんね。
 

 

 

 いち早く京に攻め入った木曽義仲は源氏の棟梁を自任して、関東で力を蓄える頼朝との仲が険悪になって行きます。
 信義の動きはと言うと、義仲に合わせて東海道を攻め上った弟:安田義定は、京で義仲に合流すると“義仲与党”を鮮明にします。
 一方、甲斐東部に居た弟:加賀美遠光は頼朝に近づき、臣下として厚遇されます。

 

 こうして甲斐源氏独自の勢力が分散してしまった信義は、地勢上頼朝との協調の道を選ぶしかなく、頼朝の弟達(範頼、義経)と対等の立場で義仲、そして平家追討の戦いに参戦して行きました。

 

 平家が滅亡すると、その主役に躍り出た義経が妬ましい頼朝は、奥州藤原氏とともに実弟:義経を滅ぼしてしまいます。
そして次のターゲットになったのは甲斐源氏の武田氏でした。
 対等、同格の味方の存在を認めない頼朝は、信義の子:一条忠頼の暗殺に始まり、様々な難癖をつけて来ました。

 

 そんな折、信義は59歳で生涯を閉じてしまいます。
家督は5男の信光が継ぎましたが、24歳の信光に頼朝に抗する術も勢いもなく、武田氏は臣下となり鎌倉御家人として生きていく道を受け容れる事となるのです。
 

 

 晩年に西上作戦を敢行した武田信玄は、この時の始祖:信義の無念さに思いを馳せていたのかも知れませんね。
 
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北陸路から京を陥れた義仲でしたが、関東武士団を統一した頼朝の力は絶大になりました。 
 

 

 

つづく