最期の最後に裏切り、勝頼に引導を渡す事になった小山田信茂。
織田信忠にも嫌悪され、“不忠者”のレッテルを貼られ、後世の評判もすこぶる悪い訳ですが、戦国の世を前提にして、信茂の行為を本当に“邪悪”で片付けられるのか
信茂が裏切りに至った背景を多少調べて少し弁護して見たいと思います。
 
 
 まず、とても意外な資料を見てください。
 
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 田野で勝頼が自害する瞬間まで勝頼に従い、討死にした忠臣のリストですが、小山田家の者が4名も含まれています。
それも家臣ではなく、信茂の従弟やら甥の近親者で、特に甥の義次は先代:信有の子と思われ(確証はありませんが)、小山田家の№2だったのではないかと思います。
 平左衛門と弥助は鉄砲の名手で、鳥居畑の戦いでは二人で30人以上の織田兵を撃ち斃したと言いますから、まさに本気です。
 また、仁科盛信に従って高遠城の副将として玉砕したのは、分家の小山田昌行でした。
 
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『真田丸』より  この場面は史実かも知れませんね
 
 こう見ると、小山田家としては信茂が裏切るその瞬間まで、勝頼を支えて戦い武田家を守る事で意思統一されていた事が判ります。
そして、裏切りが発覚しても4名が離脱せず勝頼に殉じた事は、決して一枚岩ではない、多様な内部構造を現していますね。
 
 小山田家当主である信茂の独断での咄嗟の判断だったとしたら、小山田家当主の置かれる立場とはどんなものだったのでしょうか?
 
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笹子峠のトンネルを抜け、郡内小山田領に入ります
 
 
 小山田家は秩父七党(武蔵平氏)の流れの枝族といわれ、武蔵の多摩郡小山田(東京都町田市)を本拠にしていました。
 これが甲斐の国に移るのは南北朝期の頃で、甲斐武田氏と縁戚を結んで行動を共にする様になります。
 
 小山田家の領地は甲斐国東部の郡内地方(都留郡)で、現在の都留市、大月市、上野原市にあたります。
 中央自動車道を走る方はお判りでしょうが、深い山々に囲まれ、耕地の少ない東西に細長い谷間です。
 山ばかりのこの地域の主要産業は林業で、村々には土豪が居て自治意識が強く、土豪間は寄合の様な独自の相互扶助のルールで強く結び付いていました。 
その総元締めの様な地位に居たのが小山田家の様です。
 
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 そんな背景があり、郡内の自治権を認められていた小山田家は、武田家傘下に有りながらも同盟に近い関係だったと言われ、独自に北条氏、今川氏ともパイプを繋げており、優位性を得る為に武田家からは“親類衆”に高待遇されています。
 
 
 この有利な位置付けが変わって行くのは信玄の頃からで、相次ぐ領土拡大の為の戦いに、当主の出羽守信有は積極的に協力し、信濃の戦線で活躍します。
しかし果てしない戦いで有能な家臣を多く損耗してしまいます。
 
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 出羽守信有が死ぬと、家督は嫡男の弥三郎信有に受け継がれますが、弥三郎は病気がちだった為か次第に戦いを忌避する様になり、小山田家の武田家中での地位は相対的に下がって行き、武田家に対しては“従属”が前提になってしまうのです。
 領地の郡内での寺社への寄進でさえ、信玄の承諾が要る様になったと言いますから、完全に家臣扱いですね。
 
 弥三郎はやがて神仏にのめり込む様になり、家督を弟の信茂に譲って隠居すると、間もなく死んだそうです。
 信茂は兄と違い野心家で、武将としても優秀でしたから、『昔の様に先祖の血で得た領地の事は自由にできる自治権を取り戻したい』願っており、兄の失地回復に懸命に努めます。

 

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武田信玄真田丸より、小山田信有、信茂兄弟 あまり似てませんね^_^;
 
 しかし、川中島、西上野、相模、三方が原とそれなりに武功は挙げるのですが、巨大になった武田軍団では山県昌景や馬場信春、高坂信昌などの傑出した武将が育っていて、やはり見劣りしてしまいます。

 

 信玄から勝頼の時代になり、長篠で主要な武将が消え、チャンスが巡って来ました。
織田の侵攻が始まって弱り目となった勝頼、その勝頼を擁して武田家の存続に奮闘した者が武田家の№2になれる訳です。
そうすれば、昔以上の自治権、裁量権が手に入る 信茂がその為に仕掛けた岩殿城への誘引なのです。
 

 

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信茂が誘い、勝頼が頼った岩殿城 兵糧攻めの持久戦しか手立てがない城です
 
 信茂の戦略では、勝頼を討ち取られない為の岩殿城籠城で、パイプのある北条に働きかけ、上杉から援軍が来て北信濃の戦線が膠着するまで数か月耐えれば和睦となり、その後は勝頼を擁していた自分の地位が筆頭となり、勝頼を傀儡にして武田家を牛耳れる…くらいまで考えて(夢見て)いたと思います。
 

 

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城山の麓は桂川の深く険しい浸食谷が巻いていて、天然の堀を形成しています
 
 ところが実際の戦闘はそう上手くは転がらず、織田に寝返った(ていた)家臣は意外に多く、織田の電光石火の攻撃に瞬く間に武田領が蚕食されて行きます。
*疾きこと風の如し…相手の対策が間に合わず破綻する素早い軍事行動こそ信玄の勝ち技だったのに、一体何を見ていたのかな?

 

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おや? 看板は“落城”してますね
 
 「これでは北信濃、上野の武将も持つまい、さすれば上杉も北条も介入はしない…。そうなると四面楚歌の岩殿城では座して死を待つのみ…か」 そう見積もると、『我が守る!』と大見得を切って勝頼を擁している自分はまぎれもない主犯で、武田家の滅亡とともに小山田家の滅亡も確実です。

 

 「肝心の小山田家を守るため、領地を少しでも残すために… 全てが裏目に出てしまい、遅きに失し望みは薄いが、やって見るしかないな」
 

 

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有名な『猿橋』は、出羽守信有が架けたものです
 
 戦国の家の当主として、常に勝ち残り、生き残る事を考えるのは最大の役割です。
小山田家の場合、武田家の強さに寄生して、利用して存続を果たして来た訳ですが、武田家に利用価値が無くなった時、未練なく寄生先を変えるのは、家を預かる当主としてごく当たり前の事と言って良いでしょう。
 いち早くそれをやったのが木曽義昌であり、実を棄てても名(武田家)を取ろうとしたのが穴山梅雪です。

 

 信茂は武田家を残し、その中で自らの地位を上げようと試みました。
所詮は武田家家臣という枠組みから抜け切れなかったという見方もできますが、運が無かった=見通しが甘かったというか、プランを成立させる為の根回しや働き掛けにどの程度努力していたかがかなり疑問です。

 

 “勝つ為に最大限の努力をして、負けたら兵家の常と潔く死ぬのが武士の本分”だとしたら、信茂の行為は悪足掻きにしか見えません。
しかし、その悪足掻きに加担せず、武士の本分を貫いた者が小山田家にもたくさん居た事で救われた思いがします。