武田家臣団で有能な兄弟といえば、真田幸隆の子息4兄弟(信綱、昌輝、昌幸、信伊)があまりにも有名ですが、有能な兄弟を輩出した家は他にも多くありました。
あまり取り上げられる事がなく知名度は低いのですが、今回取材の勝頼との絡みで言えば、金丸家の7兄弟が最も機能した気がするので、少し詳しく紹介します。
 
 
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山梨県南アルプス市徳永にある長盛院 金丸家の館跡です
 
 金丸家とは信玄の4代前の当主:武田信重が三男の光重の為に立てた家で、以後は親類衆として家臣団の要職を勤めて行きます。
 金丸7兄弟の父:虎義も若くして信虎の使番(百足衆)を勤め、晴信(信玄)が生まれるとその守役となり傍近く仕えました。
虎義は子沢山で、しかも7人もの優秀な男子に恵まれました。
 
 
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長男:金丸昌直
 嫡子である昌直は順調に昇進を重ね信玄の奥近習を勤めていましたが、ある家臣が奉行に暴言を吐いた事を信玄に報告したところ信玄の怒りを買い、最終的にその家臣の母が死ぬ事態に至りました。
昌直に遺恨を持ったその家臣はある日昌直を待ち伏せして殺害しました。
嫡男は若干20歳で亡くなってしまいます。
 
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館は釜無川の河岸段丘上にあり、崖端の城塞機能も兼ねていました
 
 
二男:土屋昌次
 次男の昌次は元服にあたり、甲斐西部の古くからの豪族:土屋氏の名跡を与えられ、新たに土屋家を立ち上げます。
 土屋昌次といえば真田昌幸と同じ“信玄奥近習6人衆”のひとりで、これまた昌幸と同じ様に信玄が“これは”と思う二男、三男の小姓衆に名跡を与えて生家から独立させ徐々に力を持たせる手法ですね。
 
 期待に応えた昌次は戦役でも活躍を重ねて武田24将にも数えられ、信玄が死去する段階では家老衆のひとりにまでなっています。
 信玄の遺骸を密かに甲斐に戻し、自身の屋敷で深夜に人知れず荼毘に付し、仮埋葬までした一切を取り仕切ったのが昌次でした。
 その将来性を誰もが認める昌次は、年齢が近い事もあり、勝頼との関係も良かったといわれます。
 
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設楽ヶ原古戦場にある昌次戦死地碑
織田軍の佐久間隊に突撃した昌次は、三重の木柵の二重目まで斬り倒し、三重目に取りついた所で集中射撃を浴び斃れました。 最期に何を叫んだのでしょうか 
 
 四天王をはじめとする他の家老や親類衆との間に挟まれ苦心しますが、設楽が原での死に様を見る限り、その苦労が実を結ばなかった事への贖罪の様なものを感じてしまいますね。
 享年30歳、武田家にとっては次代を主に担うべき能力を持った誠に惜しい人材の喪失で、高坂昌信も彼の死に一番ショックを受けたと言います。
 
 
 
男:秋山
 昌詮も兄達と同様に利発で、子の居なかった(未婚だった)重臣の秋山信友に請われて秋山家の養子になります。
秋山信友といえば、東美濃の岩村城で“おんな城主:お艶の方”を口説き落とした武将ですね。
 それはもう少し後の話で、昌詮は養父の信友と共に西上野、駿河の戦線で活躍しますが、惜しくも病死してしまいました。
 
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長盛寺西側の平坦な台地続きには、土塁痕が明瞭に残っています
 

四男:金丸定光
 長男:昌直が殺害された時、上の兄達はすでに別家に移っていたため、金丸家の家督は定光に廻ってきました。
定光は侍大将として勝頼の傍近くに仕え、岩殿城への逃避行にも同行してます。
 
 勝頼が最後の時を迎えるにあたり、鳥居畑では果敢に滝川勢に斬り込んで、時を稼ぎながらいち早く討死にを遂げました。
 
 定光の子:昌春はのちに家康に召し出され、結城秀康に付けられて越前大野城の城代を勤め3万5千石を給されました。
 
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お寺の外れにある定光の墓 墓碑名は光信になっていますね

弟:昌恒の墓と並んで葬られています
 

 

 

男:土屋
 さて、今回たくさん登場した昌恒です。
 昌恒は設楽が原で戦死した兄:昌次の跡を継ぎ土屋を名乗りますが、同姓で武田水軍を率いた駿河の土屋(岡部)貞綱も討死にしたため、両家を併せた土屋家の継承でした。
 昌恒は武勇に優れた武将で、主に上野、東海道方面で活躍しました。
天正8年(1580)、勝頼が上野の膳城を攻めた際の“素肌攻め”では平服の軽装ながら先頭に立って乗り込み、斬りまくった様ですから“凄腕”は折り紙つきの、勝頼が信頼する側近だったのは間違いありません。
 
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天目山に向かう崖っぷちにある『片手斬りの碑』
 

 駒飼宿で小山田信茂の寝返りが発覚し騒然となる中、狼狽える側近達を叱り飛ばし、天目山で武士らしく討死にする事を提案したのは昌恒だと言われます。

 

 天目山に向かう途中、大蔵沢での昌恒の奮戦ぶりは土屋昌恒片手千人斬りとして語り継がれていますが、最後は勝頼の介錯をしたあと弟の親久と織田軍に斬り込み討死にしました。
 
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大正時代の写真は不明瞭ですが、小さな荷車がやっと通れる道幅です。

昌恒は此処で蔦につかまり、片手で敵を斬っては谷底に蹴落とし、次々に10数人を斃したそうです
 

 戦後に昌恒の奮闘ぶりを耳にした徳川家康は、駿河に逃れていた昌恒の妻子を探し出し、まだ幼児だった男子を召し出して阿茶の局に養育させたそうです。
この子は後に秀忠の名をもらって土屋忠直と名乗り、上総大多喜2万1千石の譜代大名となります。
 また土屋家の家臣団も採りたてられて、70名ほどが井伊直政の配下に組み入れられたそうです。
こうゆう武将を愛した家康らしい行ないですね。
 
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兄:定光の隣にある昌恒の墓 ちょっと荒れてるのが残念です
 

 

 

六男:金丸正直
 正直は武田信勝の小姓として仕えていた様ですが、天目山に同行したのかどうかは記録が無く不明です。
武田家滅亡後も生き残って金丸家の当主を継ぎ、徳川家臣となった様です。
 他の兄弟が勝頼に殉ずる中、正直だけが外れる事自体が不思議なのですが、何かの理由で脱落したのでしょうね。
その理由とはズバリ、御旗・盾無が現存する事ではないかと推察します。

 

 
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山深い日川渓谷を遡り、御旗・盾無を運んだのは正直か…
 

【七男:秋山親久
 三男:秋山昌詮の病没を受けて秋山家を継いだのが、末弟の親久でした。
義父の信友が岩村城を開城した後は甲斐に戻り、秋山家当主となっていましたが、親久もまた秋山一族を連れて勝頼に最後まで従います。
田野では信勝の介錯をした後、兄:昌恒と共に討死にしました。 
若干17歳だったと言われます。

 

 
 勝頼の最盛期には10ヶ国にも跨る勢力を誇った武田家、最大兵力はおそらく5万人以上だったと思われますが、最後まで勝頼に付き従い、田野の地に至った時は僅か30人余りだったそうです。

 

 信玄が長年掛けて育てた君臣の強い絆、設楽ヶ原であれだけの将士が命をなげうって勝頼を守ったのは、その賜物“信玄の遺産”ですが、勝頼はそれを食い潰してしまい、絶滅しかけていたという事ですね。
その中に金丸兄弟が4人(5人)居て、一族を含めると多くの金丸家の者が居ました。
 
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『武田信玄』より
 
 織田軍に徹底抗戦した仁科盛信と依田信蕃は別として、多くの家臣が落ち目の主人を見捨て保身に奔る中で、命を賭して主人に殉じたこの兄弟の心意気は、武田の名前を後世まで高め、彼らの子孫は争って徳川大名に召されたのです。
 

 

 ちなみに、近世に“政界のドン”と言われた山梨県選出の金丸信さんは、この家の子孫ではない様です。

 

 
 
次は小山田信茂を考えてみます