(上)(中)(下)の三話で終わる筈でしたが、容量の関係で書き切れなかった事があり、やや消化不良気味です
 また、今回は武田家滅亡に関わりのあった幾つかの寺社も巡りましたので、併せて紹介したいと思います。
 
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 理慶尼という、女性の視点から残された記述を元に、武田勝頼の最期を見てきた訳ですが、どうしても情緒的な表現が多くなってお前はスペイン人か!と言いたくなるような“女々しい”感じを受けてしまいます。
 しかし、そうした面も個人の持つ人格の一部に違いありませんから、勝頼という人間に一歩踏み込んで見る事ができたと思います。
 
 武田家の中で勝頼という人間がどんな立場で何を求められていたか。
そのシーンは大きく三つに分ける事ができると思います。
 
 
諏訪衆(外様)の惣領としての諏訪勝頼
 最初は占領地:諏訪地方の民心安定のため、諏訪家の継承者とされた勝頼。
は諏訪頼重の姫ですから、諏訪家の血を引いており、ベストな役割ですね。
 諏訪領内の安定 → 武田家臣団の一翼を担う → 親類衆の一家として当主を支えて行く。
といったストーリーが描ける訳で、穴山、一条、葛山、諸角みなそうして生きて来ました。
 
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諏訪湖 勝頼個人の戦力基盤は諏訪衆、そこから大きく踏み出す事は出来ませんでした
 
 勝頼にとって不運だったのは、この立ち位置を形成する途中で義信事件が起こり、府中に戻されてしまった事ですね。
 
 
武田家の嫡子としての武田勝頼
 義信事件の後、躑躅ヶ崎へ呼び戻され、後継者としての成長を求められた時期ですね。
 上野箕輪城での初陣に始まり、武将:勝頼は“優秀な”部類に入ると思います。
この位置でも、上位にドンッと信玄が居て、全てを判断し指示してくれるわけですから、自分で指示する範囲は限られます。
 人を動かす術をどう学んでいたのかは疑問です。少なくとも同年代の信玄ほど貪欲ではなかったのでしょうね。
 
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躑躅ヶ崎館 勝頼にとって居心地は決して良くなかったと思いますが、此処も戦場です
 
 そして、後継者といえども最終決定ではないから、必ずライバルが居ます。
他の一族や重臣の思惑と人質を見極めて、自分の政権になった後の味方・中立・敵の層別をキッチリしておくべきだったと思いますね。
 
 
武田家当主としての勝頼
 そして当主の継承。 大信玄が死んだ後の当主ですから反発する者、非協力的な者もとても判りやすい時期です。
 勝の最大の失敗はここで、敵対勢力を徹底的に粛清しなかった事。
これは大きくなった戦国大名は誰でもやって来てる事で、戦国武将には避けて通れない宿命の様なものです。
それが出来なかった要因は後継者の時に多数派工作をしなかった事に尽きると思うのです。
 
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新府城跡 人は城、人は石垣なのですが…天然の要害に頼ってしまいます
 
 潰されないだけの戦力が結集できれば、御館様の権力で中立派は自ずと着いてくる訳ですから…。
 
 結局のところ、武田家を取り纏めて行く意思の強さと器量が無かったと結論付けて良いのではないでしょうか。
 
 
 

 

続いて、直接の舞台とはならずとも、武田家滅亡前後に役割を果たした寺社を、関わりとともに紹介して行きます。
 
 
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【①雲峰寺
 甲府盆地の北東、奥多摩へと通じる谷間にある裂石山雲峰寺は天平年間開山の臨済宗の古寺です。
歴代の武田家当主が戦勝祈願の寺として帰依した所で、その為か、蝦夷討伐に向かう源頼義が後令泉天皇より賜わった旗(日本最古の日の丸)が奉納されていました。
 
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雲峰寺本堂 見事な茅葺の大屋根です
 
   勝頼自刃後、武田の家宝である孫子の旗(風林火山)や諏訪神号旗(南無諏訪大明神)、そして勝頼の旗印(「大」)は家臣の手で日川の谷を遡り、大菩薩を越えてこの寺に持ち込まれました。
寺では、武田家再興に備えてこれらを極秘裏に保管しています。
 
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御旗は立派な資料館に保管・展示されています
 

 風林火山の旗は全部で8枚作られ、1枚が恵林寺にあり、そして1枚は喪失し、残りの6枚は此処にあるそうです。
 寺では立派な資料館を建て展示してくれてますが、常時開館するほど見学者も無いので通常は閉鎖しています。
観たい時は事前連絡して行けば開けてくれるそうですよ。

 

 

 

向嶽寺
 御旗が雲峰寺なら、盾無の鎧が持ち込まれたのはこの塩山向嶽寺でした。
此処は臨済宗向嶽寺派の大本山で、本山らしく堂々とした伽藍が広がっています。
禅宗の大本山ともなればお布施だけでも成り立つのか、この寺には観光色が一切ありません。ちょっと敷居は高く感じますね。
 
 盾無の鎧は勝頼の臣が持ち込み、本堂前の松の木の根元に埋め隠したそうですが、後でこの話を聞いた徳川家康の手で掘り出され菅田天神社に奉納されたそうです。
 
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向嶽寺 広い敷地で観光客も居なく静かです 向嶽とは“富士に向かう”という意味です
 

 その頃、此処にはなんと松姫も滞在していました。
松姫は兄:仁科盛信の高遠城に居ましたが、15822月初旬、織田軍の攻撃を控え盛信から、嫡男:信基(6歳)、長女:小督3歳)伴い新府城まで避難する様に依頼されます。
 
 新府城まで来た松姫でしたが今度は勝頼から貞姫(4歳)と、何と小山田信茂の香具姫(4歳)も預かる事となります。
勝頼からは八王子の北条氏照を頼る様に言われ、10名ほどの護衛が付けられます。おそらく氏照の妹の勝頼夫人が内々に承諾を得ていたのでしょうね
 
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盾無の鎧は松の木の根元に埋め隠されました。 此処かな?
 

 この時松姫は22歳、幼稚園の保育士と化してしまい、2月末には向嶽寺に入り逗留します。
しかし、勝頼の逃避行が始まってもそのまま甲斐に留まり、織田軍が府中に入って来ても裏の“塩ノ山”に隠れただけで動きませんでした。

 

 何をモタモタしてたのか疑念の残るところですが、ひょっとしたら武田軍が勝つのでは…』 などとは思う筈も無いので、おそらく心の何処かで、織田軍に見付かり織田信忠のもとに引き出される事態を期待してたのではないでしょうか。
 しかし、勝頼の自刃が伝わり、信長の命令もあって甲斐の残党の掃討は熾烈を極め、老幼を問わず処刑されて行きます。
もし捕えられ、信忠様が残虐な人で殺いられる事態になっても、私には後悔はない でも兄達から預かったこの子達は…』
そう思った時、松姫は山越えを決断するのです。

 

 この時、信忠も松姫の消息をしきりに気にしており、結果論で言えば、思い切って信忠を訪ねれば、本能寺までの束の間だけでも幸せな時間を持てたのに 武家の娘の不運を一身に背負った様な人でした。
 

 

【③菅田天神社
 さて、盾無の鎧が奉納された菅田天神社です。
その前に盾無の鎧とはですが、源氏に伝わる盾梨7領の鎧のひとつで、ここでは甲斐源氏:武田氏に伝わる『小桜韋黄返威』を指します。
 
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菅原道真の天神様ですね
 

 源頼朝などは盾無の鎧を着用して戦ったそうですが、武田氏では早くから当主の証しとして神格化され、実用は無かったので唯一現代に残りました。
 信玄の時に、躑躅ヶ崎の鬼門にあたる菅田天神社に宝物殿を建て保管させたもので、徳川家康は元に戻しただけですね。
 
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参道脇にある宝物殿 盾無の鎧はこの中にある…かな?(博物館の収蔵庫かも知れません)
 

 国宝でもあるこの鎧が一般に公開される事はなく、県立博物館と武田神社宝物館にあるレプリカを見るしかないそうです。
 
 

 

恵林寺
 乾徳山恵林禅寺と号し、鎌倉末期からの寺ですが、武田信玄が師と仰ぐ快川紹喜が住職となると信玄の寄進が続き、甲斐を代表する大寺院になりました。
信玄が自らの菩提寺に指定すると快川は国師とまで呼ばれ尊敬を集めます。
 
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武田ファンなら、まずは行きたい恵林寺です 観光客多い!
 

 織田軍が甲斐に入り、残党狩りで追いつめられた武田家臣が最期の拠り所に選んだのもこの恵林寺でした。
しかし寺を包囲して引き渡しを求める織田軍に快川は厳として応じず、武田家に殉ずる道を選びます。
 最期は家臣らと共に山門の楼閣に立て籠もりますが、何でも焼いてしまう信長の軍はこれに火を掛け全員焼き殺してしまいます。
快川紹喜が是に動じず安禅かならずしも山水を須いず 心頭滅却すれば火自ら涼し と嘯いて滅した話は有名ですよね。
 
 
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有名な山門 意外に小さい…と思ったら、再建の時かなり縮小されたんだそうです。 家康…ケチぃぞ!
 

 現在の恵林寺は大きな宝物館があって、観光客を集める“武田観光寺”の様相ですが、信玄と自慢の家臣団の墓は残念ながら立ち入れません
 宝物館も質量とも充実していて、特に文書類に見るべきモノが多い気がします。
が、残念ながらこちらも撮影禁止で、雰囲気をお伝えできません。
仕方ないからこれでも貼っておきます^_^;
 

 

 
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⑤法泉寺
 最後は躑躅ヶ崎館にほど近い、甲府市内にある法泉寺です。
決して大きな寺院ではありませんが、ここに勝頼の正統な墓があり、菩提寺とされてるのがこの法泉寺です。
その正統性とは
 
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法泉寺本堂 本来、7代信武の菩提寺でした
 

 勝頼の首は最後は京の三条河原で晒されますが、その後、武田家から大きな寄進を受けていた京の妙心寺の住職が貰い受け、境内に手厚く埋葬しました。
 その場に甲斐から唯一、法泉寺の僧が同席しており、親子の髪と歯を分けて貰って持ち帰り、これも手厚く葬って勝頼の墓としました。
 勝頼は生前に菩提寺を決めていなかったので、徳川幕府も困っていましたが、その事実を突き止めた事から、法泉寺を菩提寺として承認したのだそうです。
 
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勝頼、信勝の墓です
 
 
*次は、土屋昌恒を取り上げます