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天目山へ
 天目山は鶴瀬宿まで戻り、日川沿いに北へ登って行った険しい峡谷の上流にあります。
去ること150年あまり前、鎌倉公方に対し前関東管領の上杉氏憲が企てた反乱(上杉禅秀の乱)に同調した武田氏13代当主:信満は上野原での戦いに敗れ、追討戦の中で辺境の此処まで逃げ延び、自害して果てました。
その地には信満の菩提を弔う寺が建てられ、天目山栖雲寺と称していました。
そう、天目山は山ではなくお寺の名前なのです。
 
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田野から見る天目山方面 栖雲寺…その名の通りの景色です
 
 
 信満の嫡子:信重は高野山に逃れ僧になったため、武田家は一旦滅亡するのですが、後に還俗して甲斐に戻りました。
その後4代掛けて信虎の時に再び甲斐を再統一したのです。
その武田家も、図らずも2度目の滅亡をまた同じ場所で印す事となってしまいました。
 
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栖雲寺本堂 案外新しい建物でした
 
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墓地には此処で自害した武田信満と殉じた家臣団の墓があります
 
 3月10日の午後、背後に織田軍の気配を感じる中、初鹿野の里を過ぎ、田野の里も過ぎた一行は大蔵沢まで辿り着きました。
天目山まではあと2kmほどで、暮れ前には着けそうです。
 しかしここで、物見に先行していた家臣が、天目山には既に100名以上の敵が先回りして待ち構えている事を伝えます。
 
 諸説あって、小山田信茂の配下の辻盛昌とか、織田軍別動隊などと言われていますが、信茂に勝頼を討ち取る気があれば駒飼宿を攻めたでしょうし、そこまで積極的な裏切りではなかった気がします。
 また、織田軍だとしたら勝頼の行先は小山田領と認識してる段階ですから、先回りまで考える情報量はありません。
 おそらくですが、合戦には付き物の落ち武者狩り、しかも小山田にパイプを持つ地元の土豪達が野盗と化して集結していたと考えます。
 
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前日の雨にも拘らず、大蔵沢には清流が流れていました
 
 しばらく思案した勝頼は、勝算が難しく、野盗ごときの手に掛かっての最期は口惜しいし、日暮れも近い事から田野の里まで戻って夜を明かす判断をして、反転を始めました。
 
 そこへ一行に気付いた野盗達が襲い掛かって来ました。
しかし此処は、土屋昌恒が狭隘になる細道に立ち塞がって賊を次々に斬り伏せたため、恐れをなした野盗達は上流に引き揚げました。
 
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人ひとりがやっとの細道に立ち塞がった昌恒は1対1の斬り合いに持ち込み、次々に十数人を斬り斃したそうです
 
 人気の無い田野の農家に入り、寒さと空腹の中で夜を明かす事になった勝頼主従でしたが、すぐにも最期の時が訪れるかと思えば気が滅入り、勝頼夫人や侍女達はただただ泣くばかりです。
 
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勝頼が最期の拠点に選んだ農家は台地の先端にあり、やはり要害でした
 
 ここで勝頼が夫人に対しひとつの案を持ち掛けます。
『岩殿山行きは叶わなかったが、山を越えた郡内は相模の国のすぐ隣りだ、其方ひとりの輿車なら小山田も通して呉れるだろうから、北条の実家に逃れてはどうだろうか?』
これを聞いた夫人はいつになく驚くほどに語気を強めて反論します。
『これは異なこと、昨夜も来世で再び同じ家に生まれます様、お祈りしたばかりではありませんか、情けない事を申されますな!』
言葉は抑えてはいたものの、夫人の眼には明らかに怒気が現れています。
 
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その跡には景徳院が建ち、勝頼主従の霊を弔っています これはその後甲斐を掌握した徳川家康の武田旧臣懐柔策でした
 
その裏には、
「何をいまさら! 何のために私は貴方に嫁いだのですか? 武田と北条が互いに助け合って行く為の証しだったのではないのですか?
先年、上杉の御舘ノ乱の折、あれほど我が弟の景虎をお助けくださいと重ね重ねお願いしたではありませんか! なのに貴方は景勝殿を採りましたよね? それが実家の北条との手切れになり、貴方は北条の領地に攻め入り、手紙のやりとりも途絶えたままなのですよ!
今、貴方の選んだ大切な景勝殿が何を助けてくれてるのですか? 
私が小田原へ戻れば、兄:氏政も氏照も喜んで迎えてくれるでしょう、しかし、私は…一体どんな顔をして帰れば良いのですか!」
との恨みが隠れています。
ハッとそれに気づいた勝頼は『…そうであったな』 と返すしかありませんでした。
 
 
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景徳院本堂と旗掛けの松 勝頼は此処に諏訪神号旗を立掛け、本陣としました
 

 そんな雰囲気の悪さを察した土屋昌恒は酒を用意して、『最期の盃を交わしましょう』と勝頼にすすめます。
勝頼は夫人に注ぎ、夫人は信勝に注ぎ、信勝は家臣にと盃は進み、沈みきった雰囲気からあちこちで会話の声が聞こえ出しました。
しかし、酒が進むに連れ、会話は寝返りや脱走者への恨み言になって行きます。
 
「ええい、この期に及んで覚悟の定まらぬ者どもめ!」と、心の中で苛立ちを覚えた昌恒は、5歳になる自分の嫡子を近くに呼び寄せます。
『そなたはまだ幼く、我らの戦いには付いて行けぬゆえ、先に行って冥途の巷にて待っておれ』と言い含めると、西を向いて座らせ、念仏を唱えさせます。そして腰の脇差を抜くや否や一気に我が子の胸を刺してしまいました。
 
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四郎左の戦場碑 最初の戦闘は本陣の300m下流の場所で始まり、武田勢は織田勢が一旦退くほど善戦しました
 

 皆が呆気に取られる中の一瞬の出来事で、勝頼も『昌恒…何もそこまでしなくても…』 と言い掛けながらも、遅くとも明日には皆がそうせざるを得ない事を目の前で見せられ、ハッと我に返って、その後はウジウジ恨み言を言う者は居なくなったそうです。
 

 

 この理慶尼記には、筆頭家老の跡部勝資や長坂釣閑斎などの重臣の名前が出て来ません。
跡部は最後まで勝頼に殉じ、長坂は行方不明(逃げた?)になった様ですが、この極限の状況で一行を仕切っていたのは土屋昌恒だった様ですね。
 
 
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次の戦いは川を渡って、本陣から100mあまり下流の鳥居畑で行われました。ここでも高地を活かして善戦しますが、この戦いで戦える者はほぼ討死にした様です
 

 そんな中、夜更けに一人の甲冑武者が飛び込んで来ます。
皆が身構える中、兜を脱いだ武士は勝頼の近臣でムカデ衆のひとりだった小宮山智晴でした。
 ムカデ衆は使番としての連絡役の他、意見の具申も求められる“侍大将”の登竜門ですが、歯に衣着せぬ物言いが持ち味だった智晴は、長篠での戦いの後に、敵前逃亡に近い形で陣払いした武田信廉などの親類衆を舌鋒鋭くなじった事から、親類衆の顔を立てる形で勝頼から閉門蟄居を言い渡されていたままの身でした。
 
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日川の川辺にある勝頼夫人と侍女16人のレリーフ

戦場から戻って来た昌恒の目くばせで次々と川に身を投げた…という説明がありましたが、実際は土屋兄弟らが介錯して冥途へ旅立たせた様です
 

 『長く譜代として武田家の禄を食む身が、武田最期の戦いに居ないのは末代までの恥辱、是非とも冥途の道連れにお加えください』 というのが智晴の主張でした。

 

『家臣が皆こういう者ばかりであったなら…』一番頼りにすべき親類衆は次々に寝返り、一戦も交えず逃亡する中、あれこれ策略を具申し重用して来た重臣共はいざという時には何の役にも立たない…。
勝頼はお館様として“本当に大事にすべきは誰だったのか”己の愚かさと父:信玄の偉大さを改めて思い知らされていた事でしょう。
 
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『真田丸』より ち、父上! すぐに参りますゆえ、この勝頼をたっぷり叱って下さりませ!
 
 
最期の戦い
 3月11日、夜明けとともに下流の初鹿野方面から織田軍の滝川一益と河尻秀隆の兵4千が攻め寄せて来ました。
 勝頼の家臣達は最初は田野の下流の地形が狭隘になる“四郎左”まで押し出して布陣し、果敢に戦って、一度は織田軍を引かせたと言います。
 人数は小勢ですが、勝頼に最後まで従った家臣には雑兵は居らず、戦いに慣れた屈強の武士が多く居ましたから、局地戦闘では強かったかも知れません。

 

 しかし、相当な犠牲も出た事から、地形に高低差のある鳥居畑まで引いて、次の攻撃に備えました。
鳥居畑での攻防は壮絶を極め、織田軍の被害も増えて行きましたが、多勢に無勢な上、長い逃避行の疲れと空腹、そして朝からの戦闘に体力も限界となり、次々と討たれて行きました。
 
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勝頼、夫人、信勝の墓碑 お供えのボトルで判る様に、やたら大きく、こうした宝篋印塔の倍の高さがあります。質量は8倍だから迫力があります
 
 この間勝頼は、最期のやり残しとして嫡子:信勝に家宝である盾無鎧を着させ、元服の儀をおこなったそうです。
 信玄の遺言で17代当主を継い勝頼、その遺言では信勝が成人するまでの代行という条件付きでしたから、最期の最後に18代当主が誕生した訳ですが、『甲陽軍鑑』の記述が元ですから、実際にそんな余裕があったかどうかは不明です。
 
勝頼の主従全員が討死あるいは自刃を遂げたのは、3月11日午前11時頃だったそうです。

 

 
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勝頼辞世
 おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端

 
 

武田家滅亡後
 自刃した勝頼、信勝の首は織田信忠の手で行軍中の信長の元に送られ、信長の首実検を受けた後京に送られて晒されました。
 信長の戦後処理の方針として、甲斐の武田一族や譜代家臣への追及は厳しく、殆んどの親族が処刑または自刃しています。
 一方、武田占領地である他国の国人は概ね赦免され、織田支配体制の元に組み込まれて行きます。
 
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勝頼主従の首を洗ったと伝わる“首洗い池”
 

 論功行賞では、甲斐は河尻秀隆に、駿河、遠江は徳川家康に、上野と信濃北東部は滝川一益に、北信濃は森長可などに分与され、国人はその支配下に入ります。
 しかし、駿東に攻め入り、多くの城を落とした北条氏には何の恩賞も無く、次は北条の意思を露わにしています。
 
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勝頼が自害した場所には“甲将殿”が建ち、勝頼主従の位牌が収められています 

名前が…イイですね
 

 最期に寝返り、勝頼を追いつめた小山田信茂も織田家に出仕すべく信忠の元に参上しますが、信忠は信茂の行為を憎悪しており、その場で処刑したそうです。
 早くから離反を決め、徳川勢の進軍を導いた穴山梅雪は本領を安堵され、嫡子:勝千代を以て武田家を継承する事が赦されます。
しかし、この3か月後の本能寺の変で梅雪が殺され、この話は御破算となってしまいます。
 
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勝頼に最後まで仕え、武田の武士らしく散った彼らのお陰で、武田家は今日も『特別な戦国の家』であり続けています
 

 徹底的に処断された甲斐でも、武田旧臣が蜂起して河尻秀隆を襲い、殺害しています。
この後に甲斐に入った徳川家康は、一転して融和懐柔策を取り、焼けた恵林寺の再建や勝頼の菩提寺を創建して、武田旧臣を好条件で家臣団に受け入れて行きます。
 
 こうして武田家は滅びたものの、武田家を支えた強力な家臣団は徳川家の中で再生し、家康の天下取り合戦の中核となって行くのです。