
甲州街道は釜無川沿いを南にくだり、竜王で内陸へむきを変えます。
ここまで来るともう新府城の煙も見えなくなり、一行は粛々と府中を目指します。
府中が近付くと領民が次々と道端に現れ、勝頼の姿を見つめ、見送ります。
勝頼にとって外征への出陣や凱旋の際にも見られた、慣れた風景なのですが、今度ばかりは勝頼を見る領民の眼は、明らかに勝頼の身を案じる憂いを含んでいます。

甲府市街を南北に貫く『武田通り』 この終点に躑躅ヶ崎館がありますが、勝頼一行は立ち寄らず、先を急ぎました あまり…良い思い出は無かったのかも知れません
時々駒を止め、領民に応える勝頼でしたが、中には元気な村人の女房が居て、
『我は姿形は女人なれど、思いは男子に劣りませぬ、何かあれば殿を御守りに駆け付けまするぞ!』…と元気づけられたりしました。
【甲斐善光寺】
府中に入った一行は、躑躅ヶ崎館には寄らず、甲斐善光寺に立ち寄っています。

善光寺山門 これだけの大きさなら、甲州街道からよく見えてた事でしょう

本堂も信濃善光寺に負けず劣らず巨大です
御本尊は後に信濃善光寺に戻され、前立仏が一体だけ本尊として残されました
甲斐の善光寺は武田信玄が、川中島での上杉との決戦に際し、善光寺が兵火に焼かれる事を恐れ、事前に本尊や鐘、寺宝の数々を甲斐に移して、京から住職を呼び寄せて開山したもので、それ以来武田氏の信仰と厚い庇護を受けていました。
女房子供を伴い脚の遅い逃避行では距離のロスは最少にしながら、それでも食事休憩は必要な為の措置と思われ、街道に近く安全な善光寺が適地として選ばれたのでしょう。

この後は笹子峠に向け、山を目指して行きます
【大善寺の夜】
善光寺を出た一行は甲州街道を東へ進み、勝沼宿を過ぎた柏尾の大善寺で宿をとります。新府城からの行程は約33kmにも及び、大善寺に着いたのはもう夜更けだったそうですが、大善寺には理慶尼という勝頼の縁者が居たため、此処を宿に選んだものと思われます。

大善寺山門 真言宗の古寺で、勝沼氏の菩提寺と思われます
理慶尼とは武田信虎の弟である勝沼信友の娘と言われ、信玄の従妹にあたり俗名を松葉といいました。
松葉は15歳で元村上義清の家臣だった信濃の国人:雨宮家次に嫁ぎましたが、勝沼家を継いだ兄の信元が上杉謙信の小田原侵攻の際に、呼応して謀反を企てたとして信玄に成敗され勝沼家は取り潰されます。
雨宮家に類が及ぶのを恐れた松葉は自ら離縁し、故郷の大善寺に入って尼になり、勝沼一 族を弔っていました。

松葉にとって勝頼は言わば兄、実家の仇の子…な訳ですが、なぜ勝頼が理慶尼を頼ったのかと言えば、新婚当時の松葉は躑躅ヶ崎館に召されて、生まれたばかりの四郎の乳母を務めていたんだそうです。
春日の局についても思いますが、乳母とは我が乳で育った子供が我が子以上に可愛いものなのですね。
勝頼の立場と心情を察していた理慶尼は、夜更けにも拘わらず勝頼主従を快く迎えました。

国宝:大善寺薬師堂 山梨県で二つしかない建物の国宝のひとつです
なんでも“逃げ恥”とかいうドラマで有名なんだそうで、若者がたくさん訪れて賑やかでしたが、なんとそのうちの数名の馬鹿者がお堂の横で喫煙しています(もちろん禁煙注意あり)
さすがに注意しましたが、馬鹿者集団の新選組でさえ巻き込む事を避けた貴重なお寺です。
低俗な流行りドラマの影響は大きいので、後の事を考えロケ地選びは慎重にして欲しいものです。
薬師堂で後世を祈願したいという勝頼夫人のたっての希望で、勝頼、勝頼夫人、信勝は薬師堂に案内され、理慶尼も加わり4人で一夜を過ごしました。
自ら最期の時が近付いてる事を自覚している夫人は、後の世(来世)も同じ家族に生まれ変わる事を一心に祈ったそうです。
西を出で 東へ行きて 後の世の 宿かしわをと 頼む御仏 (勝頼夫人)
夜更けまで祈りが続く中、合戦を察した近郷の者どもが自ら家に火を放ち、避難する騒ぎがありました。
その火に驚いて、一行の中でも脱走する者が相次ぎ、勝頼が「誰かある」と呼んでも、答える者も居ない始末です。
重ねて呼ぶとやっと近臣の土屋昌恒が現れました。
勝頼が家臣の所在を訊ねると、「誰は何時の頃より見えず、之は如時より見えず」との返事が続き、勝頼はじめ一同たいそう心細さを覚えたそうです。

堂の内部は畳敷きもあります イス以外は当時のままでしょうね
そんな誰もが沈鬱にならざるを得ない状況で何が話し合われたのかは判りませんが、おそらく理慶尼が勝頼の幼少期の思い出語りなどをして、座を和ませたのではないかと推察します。
理慶尼はのちに『理慶尼記』別名『武田勝頼滅亡記』というのを書いていて、この前後の様子が今に伝わる事になりました。

【駒飼宿で待機】
明けて3月4日、郡内の小山田領に向かうべく大善寺を発った勝頼一行は脱走者が相次ぎ、もう100名ばかりに減っていました。昨日は馬で移動してきた侍女達も馬疋が馬とともに逃げ去ったため、裸足の徒歩移動を強いられ、これを気の毒に思った勝頼夫人は
行く先も 頼みぞ薄き いとどしく 心よは身が やどりきくから (勝頼夫人)
と詠みました。

初鹿野の険しい谷底に祀られる武田不動尊
新府城から懐に入れてきた小さな木像、こんな物さえ負担に感じたのか、勝頼は代々祀る様に地の者に頼んで置いて行きました
その日のうちに笹子峠の麓の駒飼宿に着いた一行でしたが、物見に出ていた小山田信茂が戻って来て、『峠方面に敵影が見えまする故、しばしこの宿にてお待ちください』と報告しました。
翌々日の6日、その小山田信茂から、『手前、夜陰に乗じて峠を踏み越え、領地に戻り援兵を連れて迎えに来まする』 との提案がありました。
重ねて、『岩殿は田舎城にて御台所様をお迎えする場所もございません、ついては、迎えに来る間に御座所を設えます故、我が母を連れ戻る事を御赦しください』とも付け加えました。

駒飼宿近くの甲斐大和駅前にある勝頼像

これには一同皆信茂に疑念を抱かざるを得ませんでしたが、ここに至っては信茂が唯一の頼りであり、岩殿入城後を考えると、疑って信茂の心証を損なうのもマズイという事で、ここは信茂を信じて赦す事にしました。
その日の夜半、信茂は老母を伴って去って行きました。

ところが、2日、3日経っても信茂の迎えは現れません。
一行はだんだん騒然として来ますが、それもその筈、3月6日には織田信忠が甲府に着陣し、武田家の残党狩りを始めた事が伝わっていました。
4日目の3月10日の朝、さすがにおかしいと、側近の土屋昌恒らが馬を飛ばして笹子峠方面に様子を見に行くと、敵影が無いばかりか、峠は柵で閉鎖されていて小山田兵が固め、昌恒達は銃撃を受けてしまいます。

笹子峠旧道 甲州街道一の難所でした

笹子トンネル(旧) なんか…出そうなトンネルです 写ってるかも(^-^;
もはや生き残りの唯一の頼みの綱だった信茂の裏切りは明白です。
大パニックに陥った勝頼一行からはまた脱走者が相次ぎ、自暴自棄になって民家に火をつけて廻る者も現れる始末です。
気づけば武士と女房、子供を合わせても50名ばかりにまで減っていました。
重臣達の動揺も激しく、どう対応するか決める事が出来ない中、土屋昌恒の進言もあって、勝頼は『武田家も我が代で潰える事となった、この上は武田の家名を汚さぬ様、故地の天目山に拠って華々しく最期を遂げようぞ!』 みたいな事を言った様です。

『真田丸』より 最期の最後で裏切った小山田信茂 勝頼にとって致命的なダメージでした
勝頼の所在を嗅ぎ付けた織田軍の追手が迫る中、天目山へ最後の逃避行が始まります。
(下)につづく