江戸城北面の譜代の上屋敷、残りの2家を訪ねます。
 
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30.越後 高田藩榊原家上屋敷
 藩主:榊原式部大輔政敬  藩祖:榊原康政  石高: 15万石
 所在地: 千代田区一ツ橋2丁目
 現状の姿: 東京パークタワー、神田三井ビル
 
 
 徳川四天王、榊原康政の榊原家です。
榊原家は元々は酒井家の家臣であり、家康にとっては陪臣の家でした。
本来なら陪臣からの出世は難しいのですが、幼少の康政の利発さに目を止めた家康が小姓にと貰い受けてから康政の活躍が始まります。
 
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神田でも靖国通りの南側は商業地 でっかいビルがたくさん建っています
 
 康政の戦績は長くなるのでSKIPしますが、家康が関東に入封する際には井伊直政に次ぐ10万石で館林城を与え、戦功に報いています。
 こうして一代で築いた大大名の地位ですが、康政の後継者達はシャキッとしません。
康政亡き後を継いだのは三男の康勝でしたが、26歳の時に嗣子の無いまま大阪の陣中で病没してしまいます。
 
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その一角のこの二つのビルが榊原藩邸の敷地の中心です
 
 大須賀家を継いだ長男は既に病没し、二男は早世していたため断絶改易のピンチになりましたが、ここは家康のツルのひと声で、大須賀家6万石の忠政の後継者:忠次が呼び戻され、榊原家を継ぐ様命じられました。
何よりも康政の功に報い家名を繋げたい一心の事と思われますが、これにより、大須賀家は断絶改易となってしまいます。
 
 
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今日、日曜日は人通りが少ないから、オフィスビルなんでしょうね
 
 ところが、先代:康勝には隠し子:勝政が居た事が発覚します。
これは直参旗本への復帰を願った重臣達が敢えて館林藩を潰そうと画策して隠した事が判り、重臣達は処分されましたが、勝正は功臣:榊原康政の血をひく者として新たに1千8百石の旗本として召し抱えられました。
 
 その後も、榊原家では無嗣断絶の危機が2度も訪れましたが、その都度この旗本榊原家から養子を迎えて凌いでいます。
 極め付けは8代将軍:吉宗の治世、当主の榊原政岑は吉宗の倹約令に反発してか、派手な服装と遊びを好み、自ら吉原に入り浸って、仕舞には花魁を身請けするなどの所業を繰り返します。
 
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藩邸跡の碑は無いけど、こんなのがありました
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 これは幕閣で問題になり厳しい処罰が議論されましたが、結局は
『誠に不届きな所業なれど、大功ある榊原康政公の家なれば藩主は隠居の上、越後高田藩15万石に移封とする
というユルイ裁定になりました。
 子孫や家臣の度重なる失敗の数々も、康政の功の大きさには到底及ばなかったという事ですね。
 
 
 
 
 
39.山城 淀藩稲葉家上屋敷】
 藩主:稲葉民部大輔正邦  藩祖:稲葉正勝  石高:10万2000石
 所在地:千代田区神田小川町
 現状の姿: 神田小川町3丁目地内
 
 
 稲葉家とは美濃斎藤氏の重臣:稲葉一鉄の家です。
西美濃三人衆のひとりで、その後は織田信長、豊臣秀吉の元で活躍し、郡上八幡4万石を領していましたが、子の貞通の代に関ヶ原で東軍に加担して徳川大名となり、1万石を加増され豊後臼杵5万石の外様大名で明治維新まで存続しました。
 
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靖国通りに戻ると、古本屋に混じってお洒落な店が増えてます
 
 これとは別に、今回取り上げた徳川譜代となった稲葉家があります。
尾張林氏の支族の林正成は貞通の娘を娶り、義父と行動を共にして秀吉に仕えていた関係で、稲葉姓に替えて稲葉正成を名乗ります。
正成は秀吉から小早川秀秋の与力と家老職を命ぜられ、そして関ヶ原での秀秋の裏切りを仕掛けます。
 
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スポーツショップは早くも冬の装い
 
 しかし、その事で秀秋に嫌われた正成は小早川家を出奔して浪人しました。
正成はもう少し前に稲葉家出の妻と死別しており、稲葉家が匿っていた斎藤利三の娘を後妻に貰っていました。
斎藤利三の妻は稲葉一鉄の娘ですから、みんな一族ですね。

 

 後妻の“福”は稲葉家でしっかり教養を身に付けていたので、正成の境遇を打開するため、京都所司代が募集していた“徳川秀忠の嫡子:竹千代(家光)の乳母“に応募します。
 見事合格した福は正成と離縁して江戸城に入りましたが、正成の徳川直臣への採りたてに尽力して、美濃国で1万石の譜代大名に採りたてられました。

 

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一歩裏通りに入ると昔の雰囲気のままですが、屋敷の痕跡が見つかりません
 
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地図上にある神社がない! と慌てましたが二階にありました(^-^;
稲葉家藩邸の邸内社だった様ですね
 
 正成はその後、松平忠昌(結城秀康の二男)の付家老を拝命しますが、藩主と意見が合わないと勝手に出奔・浪人したりして、幕府から蟄居を言い渡されたりしてパッとしません。
 またしても福の尽力で下野烏山藩2万石で大名に復帰しますが、元女房頼りの人生を烏山で終えます。

 

 一方、家光の乳母となった福は、家康の信頼を得て、家光を“お世継ぎ様”に確定させると、将来の家光ブレーンとなる小姓衆を大量に採用し、家光ともども自ら養育して行きます。
この中には、福の実子である稲葉正勝、義孫の堀田正盛も含まれていました。

 

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ここはもう駿河台なんですね 駿府城に隠居した家康のスタッフが、死後に戻って来て住んだ地域なので、この名前がつきました
 
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太田姫稲荷神社 もしかして…と、由来を読むと、やっぱり太田道灌の姫の命を救った神社だそうです

 この稲葉正勝は家光政権になるとメキメキ頭角を現し、堀田正盛と同様に出世の階段を登って行き、30歳では相模小田原藩8万5千石を与えられ母の期待に応えます。
しかし、直後には熊本の加藤忠広や家光の弟忠長の改易などの激務が祟って体調を崩し、38歳の若さで死んでしまいました。

 

 稲葉家にとって運が良かったのは、跡を継いだ正則がまた優秀で、幕閣の要職を勤め、老中首座から最後は大政参与まで勤め、知行も10万2千石まで加増されます。
これで稲葉家は、1万石そこそこの外様大名から、常に幕閣老中を輩出する強権を持った譜代の国持ち大名の地位を確立したのです。
 
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駿河台にはこんな人も住んでたらしい
 
 もちろんこの陰には大奥を支配し老中をも凌ぐ権勢だった祖母:福の支援があったのは間違いありませんが、正勝の死後も10年近く生きた福は、将軍に代わって参内するほどの存在となり、後水尾天皇から直々に春日局の称号を貰います。
 そして朝廷から与えられた位階はなんと従二位で、これは天皇と血縁にない女性としては最高位で、北条政子と同じなんだそうです。
まさに稀代の女傑ですね。