徳川御三家の上屋敷めぐり、続いて尾張名古屋藩と常陸水戸藩を歩きます。
【4.尾張 名古屋藩上屋敷】
藩主:徳川近衛権中将義宣 藩祖:徳川義直 石高:61万9500石
所在地:新宿区市谷
現状の姿: 防衛省
吹上の名古屋藩も振袖火事で被災して、紀尾井町に麹町屋敷(現:上智大学)を拝領しましたが、中屋敷の市谷屋敷を整備する中で、麹町屋敷の運用を断念して、以後は市谷屋敷を上屋敷として明治維新まで使いました。

麹町屋敷は中屋敷とし、将軍の御成り御殿などを設けましたが、そうした機能も広い市谷屋敷内に徐々に拡充して行き、最後は麹町屋敷は見附内にありながら畑作地として農民に貸し出して、年貢を徴収していたそうです。
御三家に共通するそうした行動は、屋敷地を与える幕府と使う大名の間の認識のギャップを感じる訳ですが…。

外堀土塁上の散歩道から見る市ヶ谷藩邸 麓にビルが立ち並び、防衛省の建物(緑の屋根)は僅かに見えるだけです

名古屋藩は大藩で格式で言えば筆頭の大名ですから、江戸詰めの家臣も6千名を数え、藩邸と言える屋敷の数は34にものぼったそうです。
大仰な体制に見えるかも知れませんが、御三家が徳川家を名乗るのは“分家”として将軍家をサポートする意味合いがあり、家康も『御三家は家臣にあらず』との気持ちから、将軍は御三家に“相談と依頼”はできるが“命令”はできない様にしています。

先に地図を貼るのを忘れていました
また赤坂に屋敷を構えるという事は甲州街道、ひいては城西の監視も役目としてある…と考えるのは、分家としては至極当然の事で、これらの事を見附内の手狭な屋敷でこなすのは無理があります。
尾張徳川家の初期の付家老が家康秘蔵の平岩親吉、成瀬正一…と来ると、そうした思考と行動が働いた事はほぼ確かですね。

左内坂で高台の屋敷跡に向かいます

途中にある八幡宮は太田道灌の勧進によるものだそうで…

しかし、そうした家康の想いも、秀忠、家光の時代になるとだんだん血が薄れ、幕閣の譜代の想いも働いて、十羽ひと絡げの大名的な扱いが目立ってきて、“幕府を構成する一員”からは外されてしまいます。
そして外様の粛清が落ち着くと、大きな権力を持つ尾張徳川家は“仮想敵”の様な扱いを受けてしまいます。
紀州徳川家が幕閣と結んでその漁夫の利を得る中で、尾張徳川家のジレンマは宗治の時に最高潮となり、幕末の慶勝の行動理念に繋がって行くのです。

さて肝心の屋敷跡の様子ですが… 防衛省だから中を覗き見る事はできません(当然ですが)
以前、パトリオットを見に来た時は、フェンスの綻びから見えたのですが、新品に替わってました(^-^;
市谷屋敷を地形図で見ると、崖傍で街道と城内が見渡せる戦略的要地なのが判ります。
事実戊辰の江戸城総攻撃を控えた新政府軍の板垣退助は、この市谷藩邸に乗り込んで司令部を置き、攻撃開始に備えたそうです。
その流れでか、明治維新後は陸軍省に接収され、長く軍の施設として活用されました。
現在も防衛省の敷地となり、日本の防衛の要の拠点となっています。
【11.常陸 水戸藩上屋敷】
藩主:徳川権中納言慶篤 藩祖:徳川頼房 石高:35万石
所在地:文京区後楽1丁目
現状の姿:小石川後楽園、東京ドーム
最後の御三家、常陸水戸藩の上屋敷は江戸城の真北にあたる小石川門外の外堀(神田川)に面してありました。


小石川門の外堀通りに沿って広大な屋敷がありました
水戸徳川家は初代:頼房が幼少から将軍:家光(1歳違い)とともに勉学して育った事から家光に頼りにされていて、水戸に戻る機会が滞った事から、自然の流れで参勤交代が無く、常に藩主が江戸屋敷に居る“定府” を制度化されていました。
以後の藩主がそれほど重用された訳ではありませんが、“決まり”ですからリアルタイムで将軍をサポートする“即応体制”を敷いていました。
『天下の副将軍』と呼ばれるのはそうした背景からだそうです。

唯一の遺構である後楽園を訪ねて見ます

それにしては外堀外なのは少し遠い気がしますね。
おそらくの話ですが、藩主が常駐で藩の政治機関も水戸城よりこちらが重要でしたから、家臣の数と広さの点から郭内では難しい、まとまった土地の確保が必要だったのが一番の要因でしょうね。

朱子学の中国風意匠が特徴で、儒教思想を反映しています

同様な岡山の後楽園との区別で“小石川後楽園”と呼ばれました
水戸藩邸は現在は東京ドームと後楽園を中心とした、もう一回り広いエリアになり、金沢藩上屋敷に匹敵する10万2千坪もの面積です。
ほど近い本郷にも金沢藩邸に隣接して中屋敷があり、こちらも6万坪の規模を誇りました。
水戸藩上屋敷は球場を中心としたレジャーランド化して、様相が一変していますが、当時と殆んど変わらないものとして後楽園があります。
もちろん藩邸内の庭園として造られたもので、初代藩主:頼房が手掛け、2代:光圀が仕上げたそうです。
基本は池を中心にした回遊式庭園で、典型的な大名庭園と言えます。
しかし、そこかしこアクセント的に中国庭園の意匠が加えられており、光圀の儒教思想が強く反映された庭園だそうです。

屋敷地のほぼ西半分を割いた広い庭園ですね
木々や植栽もよく手入れされており、東京の中心に在りながらしばし都会の喧騒を忘れてのんびり散策できる環境は整っているのですが、後楽園
遊園地に隣接している為、突然のコースターの轟音と、若者達の嬌声が飛び込んできて、早々の退散を余儀なくされてしまいます^_^;
【32.讃岐 高松藩上屋敷】
藩主:松平讃岐守頼聡 藩祖:松平頼重 石高: 12万石
所在地:千代田区飯田橋3丁目
現状の姿:アイガーデンエア、ダイワハウス本社
外堀の神田川を渡って小石川門から郭内に入ると、門を守る様に讃岐高松藩松平家の上屋敷がありました。

小石川橋を渡り郭内入ります
“御三家特集”の主旨からは若干ズレるかも知れませんが、実はこの高松藩松平家は水戸徳川家の連枝なのです。
連枝とは、大名家の血筋が絶えて改易になる事態を予防するために、二男、三男に分家を建てさせ、血筋の確かな跡継ぎを供給する為の家で、通常は1~3万石程度を分知して行なわれましたが、12万石とは大仰な事ですね(宗家が35万石しかないのに…)。

入るとすぐ右手にある新しく綺麗なオフィスビル群

ここが高松藩松平家の上屋敷跡です
これには水戸徳川家の内情があって、水戸藩初代の頼房は8人の側室との間に11男15女を設けましたが、長男:頼重と三男:光圀を産んだ母:久子は正式な側室ではなく、頼重の出産・養育は極秘裏に行なわれたそうです。
その次に産まれた正式の側室の子が嫡男とされますが早世したため、三番目に産まれた光圀が唯一の男子となり、嫡子になりました。
*頼房は正室を娶らなかったのだそうです

上屋敷の道路を挟んだ東側には中屋敷もありましたが、明治維新後の運河開削で分断されています
その後、頼重の存在が発覚し、幕府も巻き込んでの騒ぎとなりますが、光圀が聡明だった為に嫡子の座は変わらず、頼重には廃絶となった生駒家の讃岐高松12万石が与えられ、水戸徳川家御連枝の家という格付けに落ち着いたそうです。
ただ、儒教の教えを信奉していた光圀は、年長の同母兄を差し置いて自身が水戸家を相続する事に納得が行きません。
周囲の説得もあって、一計を巡らした光圀は、兄の子:綱条を養子に貰い受けて後継者とし、自身の子:頼常を兄の養子に高松藩へ送り、2代藩主として、次世代で本来の姿に戻したのだそうです。
こうした光圀の自我を抑えて筋を通す行ないが“名君:水戸黄門”伝説を生んだのでしょうね。

発掘調査では地盤の工夫の跡が発見されました
その後の水戸徳川ファミリーは、森山藩、府中藩、宍戸藩の3家を新たに連枝に起こし、相互に養子のやりとりをして、見事に頼房の血だけで藩主を賄い、明治維新を迎えます。
次回はこの地域の譜代大名の屋敷を巡ります つづく