今回は徳川将軍家の分家でもある、御三家の上屋敷を歩いてみます。
地図上で見ると徳川一門として江戸城の西から北にかけての外堀の外側を固めてる様に見えるのですが、もともとの御三家の屋敷は江戸城西ノ丸の半蔵門内に造られていました。
 
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 それが幕末時点では図の様な位置に変化した訳ですが、その理由はそれぞれの藩ごとに違う事情と紆余曲折があった様です。
 
 
 
.紀伊 和歌山藩上屋敷
 藩主:徳川権中納言茂承  藩祖:徳川頼宜  石高:55万5000石
 所在地:千代田区元赤坂
 現状の姿:赤坂御用地、迎賓館
 
 
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まずは和歌山藩邸から 青山一丁目交差点から見る赤坂御用地は青山通りの北側に延々と続いてあります
 
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中には皇族がお住まいで、海外の賓客も訪れる場所の割には、1.5mほどの石垣の上に2mほどの土盛り、そして竹の南禅寺垣があるだけ…
大丈夫かな? と思いますが、たぶん高度なセキュリティーシステムがあるんでしょうね。
 
 和歌山藩の上屋敷跡は幕末基準で現在の赤坂御用地とします。
冒頭で書いた様に当初は江戸城内にあった上屋敷ですが、明暦3年(1657)の振袖火事で焼失した為、代替えの地として貰った拝領屋敷は赤坂門内紀尾井町の麹町屋敷でした(赤坂プリンスホテル跡地)。
 
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地下鉄の駅ひと駅分、とにかく広い(^-^;
立体地図使ったら、意外とアップダウンが有るのが判りますね
 
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赤坂御用地の北側、東宮御所辺りを進みます。 いつもより警備が緩い感じがするのは、皇太子ご一家が那須に行かれて不在だからかな?
 
 この麹町屋敷は和歌山藩上屋敷として文政6年(1823)まで長く機能したので、こちらが本当の上屋敷とも言えるのですが、江戸末期に焼失してしまい、赤坂屋敷(中屋敷)にその機能を移し、そのまま明治維新を迎えたのです。
麹町屋敷に御殿は再建されませんでしたので、赤坂屋敷が最終の上屋敷となるのです。
 
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皇宮警察のお巡りさんが白いポリチャリで走り廻っていますが、けっこう坂がきついです。
 
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和歌山藩邸の北門だった“鮫ヶ橋門”が遺されて使われています。 ジュラルミン盾やサスマタが物々しい感じですが、立ってたのは小柄な可愛らしい婦警さんがひとりだけ…。
ホントに大丈夫かなぁ?
 
 東京勤務の頃、時々本社ビルから見下ろしていた赤坂御用地は広大で、14万5千坪の面積を誇るそうです。
和歌山藩の御殿跡には迎賓館が建ち、用地の大半を占める西側の園地には皇太子御一家が住まわれる東宮御所と、各宮家のお屋敷が並びます。
 
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迎賓館のエリアに入ると、塀がグレードアップします(^-^;
 
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そして迎賓館の正面。 門扉の隙間からパチリ
 
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割と気軽に参観できる様ですね。有料だけど。
 
 
 明治4年、廃藩置県になると最後の藩主:徳川茂承は上京して赤坂屋敷に住んでいましたが、明治6年に皇居(旧江戸城西ノ丸御殿)が焼失すると、
茂承はすぐさま参内して赤坂屋敷の献上を申し入れ、明治21年に新宮殿が落成するまでの15年間、赤坂屋敷は御所として使用されました。
 
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迎賓館東門は和歌山藩邸の表門をそのまま使っています
 
 迎賓館まで来たのだから、目と鼻の先にある赤坂屋敷跡も訪ねてみます。
(写真だけの紹介ですが)
 
 
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赤坂屋敷に向かう途中の弁慶濠 釣りのボートがたくさん出ています
 
 和歌山藩の江戸屋敷は、拝領屋敷に加えてお抱え屋敷が多数あり、総数30を数え、その多くは江戸詰めと参勤の藩士を吸収する為のものだった様です。
 
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濠に架かる弁慶橋(当時は無かった橋)から見る和歌山藩邸(中屋敷)跡
“赤プリ”が有った場所ですが、丸ビルっぽいデザインのビルに替わっています。
 
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赤坂見附跡 赤坂屋敷の表門は、見附(門)を入って左に折れた所に有った様です
 
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弁慶橋に戻って、橋詰めにある屋敷跡碑
 
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屋敷地に入ると、北に向け緩やかに下がってますね。
道の右側が和歌山藩邸で、左側(ホテルニューオータニ)は彦根藩中屋敷跡です
 
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も少し北に進んで、一低くなった所にある“清水谷公園”
 
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ここは大久保利通が暗殺された場所で、供養碑が建っています。
霞が関の邸宅から赤坂の仮御所に参内する途中の出来事だそうです。
 
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屋敷跡の北の端まで行くと、紀尾井坂が始まります。
手前が和歌山藩邸、左手が彦根藩邸、そして前方のビルがあるエリアは名古屋藩邸でした
 
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紀尾井坂、急激に登ったかなりの坂です(^-^;
 
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坂を登りきると“喰違見附”の枡形で、外堀の土塁が残っています
現在は車道だから真っ直ぐですが、当時の道はクランク状になっていて、この名前が付いたそうです。
 
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ここからは外堀土塁上の散歩道を通って、市谷の名古屋藩上屋敷に向かいます。
土塁上から見た赤坂の和歌山藩上屋敷跡 左に表門、右手奥には御殿跡の迎賓館が見えますね
 
 先日のTV参勤した和歌山藩士の単身赴任生活を再現していましたが、藩士の江戸での勤務は1日2時間程度でしかも月5日ほどしか仕事が
無かったそうです。
 
 
尾張名古屋藩上屋敷につづく