続いて、山手線の東側(外側)に上屋敷を賜わった外様大名の屋敷跡を訪ねて廻ります。
 
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 台東区が中心になりますが、ここは隅田川沿いのフラットな低地で、江戸初期には葭原が広がっていた地域ですね。
  時代を経るにつれ、埋め立てが進んで田畑が拓かれ、次には膨張する江戸の人口を吸収すべく新町が造られて市街化して行くのですが、開幕直後を思うと随分と辺鄙な場所だったに違いありません。
こんな所に置かれた大名って どんな家だったのでしょうか?
 
 
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37.筑後 柳川藩上屋敷】
 藩主立花飛騨守鑑  藩祖立花宗茂  石高:10万9600石
 所在地台東区東上野1丁目
 現状の姿完全に市街地化
 
 
 不忍池から南に下り、広小路交差点から春日通りを東進します。
JR御徒町駅の下をくぐり、首都高の下を抜けたら、2ブロック目の北側からが柳川藩立花家の上屋敷跡です。
 
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この交差点からず~っと遠くの二つ目の信号までの左側が立花家の藩邸でした
 
  この辺りは平地だから、江戸時代から碁盤の目状の街区で、現代もほぼそれを踏襲しててとても判りやすいのですが、立花邸は東西に信号ふたつ分、南北にひとつ分の長方形のエリアにで、広さは1万8千坪くらいと想定されます。
 
 ところが、困った事にこのエリアは個人の商店や住宅が密集していて、立花家の屋敷跡を示すモノが何もありません。
  明治維新後、東京の中心から外れたこの場所に有る事で、国や要人の施設に転用されなかった事が大きな原因だと思います。
 
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南北の奥行きは、奥に白いクルマがいっぱい停まってる、あそこまでです。 この広い敷地に痕跡が一切見つかりませんでした…。
 
  藩祖の立花宗茂は戦国ファンなら誰もが一目置く強烈な武将で、関ヶ原(前哨戦)ではバリバリ西軍で戦ったにも拘わらず、結局は本領を安堵されたほどのアクティブなイメージの家柄なのですが、明治維新以降の東京人の心には残らなかったみたいで、一抹の寂しさを覚えますね。
 
 
 
21.出羽 久保田藩上屋敷】
 藩主 佐竹右京大夫義堯  藩祖佐竹義宜  石高: 20万5000石
 所在地台東区台東3丁目
 現状の姿市街地、竹町公園
 
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柳川藩邸の東半分の道を挟んだ南隣りが久保田藩邸の北側の間口でした
 
 
 春日通りを挟んで柳川藩邸の南にあったのが久保田藩佐竹家の上屋敷でした。
こちらは南北に細長い敷地で、広さは立花屋敷とほぼ同等と思われますが、大きく違うのがこれです。
 
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此処の現在の地名は台東3丁目と4丁目で、旧町名も竹町ですから、商店街は明らかに佐竹家を意識した名前ですね
 
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こんな店もあります(^^)
 
  佐竹義宜は常陸の戦国大名で、徳川家康に対しては敵対的ないわゆる“豊臣方”の武将でした。
関ヶ原では“中立”の様子見で終始しましたが、何を考えているか判らない“危険な大名”で、徳川家とは一定の距離を置いています。
 
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かぼちゃ、安いですよ(^^)  全国のシャッター商店街に比べ、賑やかな商店街でした
 
  その為、臣従後すぐに出羽久保田(秋田市)に国替えされ、江戸屋敷が此処に置かれたのも幕府の潜在的不安の証し思えます。
  では、なぜ改易を免れたのかといえば、佐竹家重臣達の自助努力もさることながら、佐竹家が河内源氏義光流の嫡流(甲斐武田氏と近い)ある事も大きな要素であると思えます。
 
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藩邸の西門付近に造られてる竹町公園 門は竹材をふんだんに使ったとても趣のある意匠だったそうです。
竹の北限は山形県だそうですから、領地では使えない建材ですね。
 
  江戸っ子の気質は、いたずらに幕府に謙るばかりの大名よりも、この様に“何するもの”の気概のある大名を贔屓目に見ます。
  佐竹家は江戸期を通じて地元の庶民に好かれた殿様だったのではないでしょうか?
そうした記憶が維新後150年を経た現在もなお、佐竹の名がこの地に残っている最大の理由の気がします。
 
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…だそうです。 またウンチクが増えた(^-^;
 

 

51.対馬 府中藩上屋敷
 藩主:宗対馬守重政  藩祖:宗義知  石高:10万石格(実高2万石)
 所在地:台東区台東1丁目
 現状の姿:完全に市街地化
 

 

 久保田藩邸をまた1街区南に下ると、宗家の府中藩上屋敷のエリアに入ります。
 
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 宗家の所領は長崎県対馬で、実高は米麦合わせても2万石の収穫しかありませんでしたが、これも幕府の政策で10万石格の大名に位置付けられていました。
 
 幕府にとっての宗家の付加価値とは、ズバリ李氏朝鮮国との外交にあります。
秀吉の出兵で破綻していた外交関係を修復し、以後の安定した関係維持に向けては、その窓口を昔から太いパイプを持つ宗家が一手に担っていた訳です。
 
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このブロックから宗家の藩邸跡なんですが… 此処も全域市街化されて痕跡は何もありません

実質は小藩で藩邸詰めの藩士も多くはなかったでしょうし、藩主も3年に一度の出府ですから、地元民との交流が少ないのも無理ないんですけどね。
 

 あまり知られていませんが、江戸時代の釜山には府中藩の居留地があり、藩士、商人など4千人ほどの日本人が住んで、交易をしていたそうです。
長崎の出島みたいのものですが、規模は桁違いですね。
ですから石高は少なくても、交易の利潤で藩財政はかなり裕福だった様です。

 

 

 

12.伊勢 津藩上屋敷
 藩主:藤堂和泉守高猷  藩祖:藤堂高虎  石高:32万3900石
 所在地:千代田区神田和泉町
 現状の姿:市街地、和泉町公園
 

 

 府中藩屋敷の南隣りにあったのが、津藩藤堂家の上屋敷です。
 
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 ここは秋葉原駅の東側で、ヨドバシカメラなどの大きな店舗もある賑やかな場所ですが、その当時は葭原と田んぼだけの寂しい土地でした。
 藤堂高虎といえば、秀吉恩顧の外様ながら徳川家康の走狗の様に働いて、譜代並の厚遇を得た大名ですが、なぜこんな場所を与えられたのでしょうか?
 
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藤堂家屋敷の目印はこの和泉公園です。 厳密には1軒置いて隣の旗本:太田家の屋敷跡ですが、藤堂藩邸を含めた一帯は神田和泉町と呼ばれていました。藤堂和泉守の和泉ですね。
 

 先月、川越の喜多院のレポートでも書きましたが、実は最初の藤堂家の屋敷は上野の山の上にあったのです。
しかし、天海大僧正が寛永寺を創建するにあたって、この地へ移転させられたのだそうです。
同様に、陸奥弘前藩津軽家、越後高田藩堀家も移転となった様ですね。
 
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台東区から千代田区に変わると、史跡看板が充実します
 
 
 

 

48.陸奥 弘前藩上屋敷
 藩主:津軽大隅守順承  藩祖:津軽為信  石高:10万石
 所在地:墨田区両国亀沢2丁目
 現状の姿:緑町公園、すみだ北斎美術館
 
 
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 今回の最後は陸奥弘前藩津軽家です。
藤堂家と同様に移転となった津軽家ですが、こちらは更に東の隅田川を渡った両国まで行かされます。

 

  秋葉原から総武線で2駅東の両国駅、目の前には両国国技館があって、東隣りには江戸東京博物館があり、津軽藩邸はさらに1街区東に有った様です。
 
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久保田藩邸跡の緑町公園
 
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葛飾北斎、江川太郎左衛門など、いろんな人が住んでいた様です
 
 ここも江戸初期には何もない本当に辺鄙な土地だった事は容易に想像できますが、当初から碁盤の目状の街区割がなされていて、江戸の都市計画の一環で開発された地域なのが判ります。
  その証拠に両国駅から歩いてきた道路(北斎通り)はかつては南割下水と呼ばれる掘割だったそうです。
 
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  弘前藩邸の跡地はその掘割から総武線の線路を越えて、京葉道路まで至る縦に長い土地で、約7千坪あります。
  現在は線路の北側は緑町公園として整備されて、園内には葛飾北斎の美術館が開設されています。
  一方、線路の南側は市街地となっていますが、屋敷の表門はこちらに有った様です。
 
 津軽家といえば元々は南部家の支族で、大浦氏を名乗って津軽地方を治める代官の様な地位にありましたが、南部家は領地が広大な分、そうした家臣の自立意識の特に強い家でした。
  織豊期に当主だった大浦為信が秀吉の北条征伐のチャンスを捉えて、敢えて独自で小田原に参陣し、秀吉に大名と認められて津軽氏を称した家です。
 
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すぐ近くには、こんなのも有ります
 

 為信は小田原で、その特異な風貌と津軽弁を他の武将にからかわれ、ずいぶん嫌な思いをしたそうですが、後継して行く子孫達は江戸で生まれ、江戸で暮らし、藩主になるまで弘前には帰れない訳ですから、家督を継ぐ頃には流行の最先端を行くシティボーイになっていたのでしょうね^_^;