新シリーズです
 関東に来たのだから、効率良く歩きやすい“お江戸”についても、もう少し深く探りたいと思っていました。
  江戸城はほぼ歩いたので、次は何かと考えていたところ新たな本に出会えたので、“江戸の街あるき”をやって行く事にしました。
テーマは大名屋敷です。
 
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本屋で見つけた切絵図の江戸歩き本 現在の地図と被せて見れるスグレモノです!
 
 
 慶長8年(1603)、徳川家康により江戸に幕府が開かれます。
幕府は、約300名にものぼる諸大名を監視・監督するため、江戸城下に屋敷地を与え、“藩邸”を造営させて、人質となる妻子の常住を義務付けます。
 更に藩主の大名に対しては、参勤交代の制度を創って江戸と国元との隔年での居住を義務付け、中央集権の強化を図りました。
 *参勤交代の頻度に関しては、基本が隔年で、蝦夷や対馬などの遠隔地には複数年毎の配慮がなされ、逆に近国の諸侯には半年毎と、高い頻度が求められています。
 
 配下の諸侯が権力者の元に屋敷を構えるのは昔からやられていた事ですが、こうして長い期間の江戸住まいが制度化されてしまうと、国元での政務に支障を来たします。
実質は江戸屋敷で国元の政務ができる体制の構築が必要になり、江戸屋敷に住む人員と屋敷の規模も膨大になってしまい、更に藩主に随行して参勤交代する藩士の人数も膨らんでしまいます。
 
 
 
屋敷の種類と機能
 上屋敷 : 藩主と妻子、主要な家臣が住み、藩の政庁となる機能の屋敷
      で、登城の利便から江戸城に最も近い場所に設けられました
 中屋敷 : 上屋敷の災害時スペアとして同一機能の有る屋敷で、平時は参
      勤して来た家臣が住みました
 下屋敷 : 郊外に広大な土地を得て御殿や庭園を造営した福利厚生目的の
      屋敷で、大藩ともなれば将軍を招いて“能”など催しました
 蔵屋敷 : 江戸湾や川沿いに設けた屋敷で、国元の産品などを保管して市
      場に売り捌くための物流倉庫機能がありました
 お抱え屋敷 : 上記の屋敷は幕府から土地を拝領した屋敷ですが、それで
      も足りない場合には自費で土地を購入し屋敷を造営しました
       たとえば、郊外の農地を購入して屋敷とし、中には菜園を作っ
      て藩邸での需要分を自給するなどですね
 
 当初の江戸の面積のうち大名・旗本の武家の屋敷地は70%を越えたと言われますが、藩邸の用地は藩の規模や格付けに応じて幕府から与えられました。
ただ各大名が好きな場所に貰える訳ではなく、あくまでも幕府からこの場所に建てなさいと指示される訳です。
  しかも、当初のその土地は宅地造成済みのものではなく、良くて自然の原野、悪いと傾斜のきつい谷間だったり、単なる海辺の干潟だったりする訳です。
 ありがたく拝領した各藩は自費で国元から工夫を呼び、山を切り拓いて谷を埋め、石垣を築いて海を埋め立てて宅地造成し、その上にまた自費で屋敷を造営する訳です。
 
 かくして、江戸城の廻りには各藩の屋敷が立ち並び、幕府というより諸大名の力で自然と江戸の街の大半が出来上がった訳です。
 
 江戸屋敷を藩邸と書いてしまいましたが、厳密には屋敷地は“藩”ではなく“家”に与えられたもので、転封になっても屋敷替えはなく、それまでの屋敷を明治維新まで使い続けました。
 

 

有力大名の屋敷地と現在の姿

 

 前置きが長くなってしまいましたが、本題です。
まず石高10万石以上の有力な大名の上屋敷が所在した場所を調べ一覧表にまとめて見ました。

 

石高や藩主等のデータは最終の幕末を基準にしています。
 
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 続いて上屋敷の所在地を地図上にプロットして見ました。
 
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 これで何が判るかという事ですが、御三家が外堀の要地を固めてるのと、外様は信頼度で遠近がハッキリ出ていますね。
追々、もっと違うものが見えて来るかも知れません。

 

 

 

 さて、屋敷跡めぐりの第一回目は江戸城北東の上野界隈に位置する前田家を中心とした外様大名群を見て行きます。

 

 

 

1.加賀 金沢藩上屋敷】
 藩主:前田中納言斉泰  藩祖:前田利長  石高:120万石
 所在地:文京区本郷7丁目 
 現状の姿:東京大学本郷キャンパス諸施設

 

 
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地下鉄丸ノ内線『本郷三丁目』で降りるとすぐ目の前の東京大学
 
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東京大学の正門:赤門は金沢藩前田家上屋敷正門でもあるのです
 
 東京大学はその敷地の殆どが300諸侯最大の大名“加賀百万石”の前田家の上屋敷跡に建っています。
前田家は徳川幕府には終始忠誠で通し、江戸城の近くに屋敷地を与えられても良さそうな大名ですが、少し離れたこの地に上屋敷を置きました。
 上野は奥州街道沿いの要地だけに、幕府も前田家に抑えの役割を期待したのかも知れませんね。
 
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敷地はなんと10万4千坪もあるそうです。
 
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赤門の内側は黒いって…知ってました? 東大構内も見学者は入って良いそうです
 
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本郷通沿いの敷地の一部、この辺りに『御手先組』の役宅がありました。
御手先組とは、幕府大目付直属の警察組織で、『火付盗賊改方』もその一部です。
“鬼平”同様、その捜査手法は町奉行所よりも熾烈だった様です。
 
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言問通りから屋敷地をグルリと北側に回り込みます。
右側が前田屋敷(東大)で、道をはさんだ左側には水戸藩徳川家の中屋敷がありました
 
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さらに東に進みます。 前田屋敷は右手に延々と続きますが、先のカーブの辺りからは同一敷地ながら、富山藩前田家上屋敷の敷地に変わります。


 

49.越中 富山藩上屋敷】
 藩主:前田大蔵大輔利聲  藩祖:前田利次  石高:10万石
 所在地:文京区本郷7丁目
 現状の姿:東京大学付属病院
 
 第3代金沢藩主:前田利常は嫡子:利高に家督を譲るにあたって、二男:利次に支城の富山城と越中国のうち10万石を分知して支藩としました。
江戸屋敷も金沢藩の屋敷地から東側の一部を切り取って与え、上屋敷を造営しています。
 
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富山藩の屋敷跡には東大病院の“茶色い巨塔”が建っています
 
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富山藩邸の下に古くからあった稲荷社と井戸 関東大震災の折に大活躍した井戸だとか
 

 

50.加賀 大聖寺藩上屋敷】
 藩主:前田飛騨守利鬯  藩祖:前田利治  石高:10万石
 所在地:文京区本郷7丁目
 現状の姿:東京大学付属病院
 
 富山藩と同様の経緯で利常の三男:利治に分知されたのが大聖寺藩です。
大聖寺城は同じ加賀にある支城でしたが、一国一城令で廃城とし、新たに陣屋を設けて、当初は7万石で分知されました。
 
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東からまた本郷の高台に登って行きます 台上の右手が大聖寺藩邸です
左手に続く石垣と煉瓦塀は越後高田藩:榊原家の中屋敷で、維新後は岩崎弥太郎邸となりました。 この坂道を『無縁坂』といい、森鴎外やさだまさしが作品に取り上げていますが、女子大生が全力で駆け登って来そうな感じもします(^-^;
 
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無縁坂を登り切って、この寺の向こうからが大聖寺藩邸です。
 
 3代将軍:家光の治世では、改易の嵐が吹き荒れましたが、前田家としてもその標的になる可能性は高い認識があったと思います。
無嗣子による改易を防ぐためにも大藩の連枝家は必要です。
 しかし、連枝にしては10万石は多過ぎますから、ダントツ120万余石の石高のプレッシャーが相当なものだったのでしょうね。
 
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東大“鉄門”を南側から見る
正面が大聖寺藩邸、左側は金沢藩邸、そして右側は高田藩邸(榊原家)です
 
 
 
52.下野 喜連川藩上屋敷】
 藩主:喜連川左馬頭縄氏  藩祖:喜連川(足利)国高
 石高:10万石格(実高5千石)
 所在地:台東区上野池之端2丁目
 現状の姿:忍岡小学校とその周辺住宅地
 

 

 この地域で唯一前田ファミリー以外の上屋敷を持つのが喜連川家です。
喜連川(きつれがわ)家については少し解説を要しますね。
喜連川家とは元は足利家で、室町幕府将軍家の足利家ではなく、関東公方として鎌倉に赴いた足利基氏(尊氏の二男)の末裔になります。
 
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お寺の向こうに見える学校が喜連川藩邸跡地ですが…
 

 関東公方は鎌倉に居て東国を支配する“幕府の支所”的役割でしたが、その裁量権をめぐって幕府と対立し、古河に移って古河公方を自称します。
 古河公方も北条、上杉との関わりの中で分裂し、北条方の古河公方に対し上杉方は下総小弓(千葉市南部)に移って“小弓公方”を名乗り互いに抗争しました。
 
 喜連川国高はその小弓公方の末代でした。
豊臣秀吉の北条征伐でどちらも没落するのですが、最後の足利将軍家:義昭も没して足利の血が絶えるのを惜しんだ秀吉は国高に下野喜連川2千石を与え、新たに喜連川氏を名乗らせ保護します。
また古河公方の姫を娶わせる事で、足利家の存続と両公方家の和解を図ります。
 
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学校の周囲をグルリ廻って見ましたが、藩邸跡地を示すものが何もありません!
 

 徳川家康の世になると、強引に“源氏長者”となった家康は足利の血をひく喜連川家を殊の外大切に扱います。
石高を5千石まで加増して、官位は国持大名並の従4位上左馬頭とし、江戸城控えの間は加賀前田家と同じ大廊下だったそうです。
 5千石までの家は参勤も賦役も課せられないのですが、喜連川家は毎年末に自主的に江戸へ登り、年賀の挨拶をしました。
しかし、少ない石高で江戸屋敷を運営し、国持大名の体面を保つのは到底難しく、財政は火の車だった様です。

 

 幸い、喜連川は奥州街道の宿場であったので、仙台伊達家をはじめ東北諸藩は参勤の折には努めて宿場を利用して金を落とし、各藩主は高価な手土産を持って喜連川藩主にご機嫌伺いをしてくれたので、糊口を凌ぐ事ができた様です。
 
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目の前はもう不忍池です 足利の公方様らしく風流な屋敷だった事でしょうね
 

 時代が下がって、各藩の財政が逼迫して来ると、そうした慣習を守らずに、喜連川宿をスルーして行く藩が増えました。
ところが、大名行列の通過情報を得た喜連川藩主は自ら宿場の手前の川に架かる橋の下に出向いて、釣り糸を垂れていたそうです。

 

『とっ…殿! 今年も橋の袂に御所様が居られまするぞ…!』
『むむむ… 止むを得まい、直ちに手土産を調えよ!』
 
 
その②につづく