今年もお盆は先祖の墓参りに備中国に来ています。
今回はついで観光で『備中国分寺』にいってきました。

備中国分寺遠景 五重塔が目印で、周囲の景色を含め天平の雰囲気がある寺院です
【国分寺とは、】
東京都下の多摩地方にある都市… ではありません(^-^;。
国分尼寺も含み聖武天皇が仏教による国家鎮護を企図して741年(天平13年)に日本の各国に建立を命じた寺院です。

国分寺の総本山は東大寺です
特に奈良の東大寺は大和国の国分寺でありながら、全国の国分寺の総本山的な位置づけもあって、国家の予算をふんだんに注込んだ一大国家事業でした。
聖武天皇の勅令により、各国に次々と寺院が建立されて行きますが、造営が国司の負担であり、寺には20名の寺僧の確保が定められ、その財源として50戸の檀家と20町歩の水田寄進も定められた為、過半の国では物要りな造営が捗らない事態が起こりました。

山門へと続く参道 創建時の南大門は5間幅でこの辺りに有った様です

現状の山門は現代の寺院らしい意匠とサイズですね
聖武天皇は打開策として、造営の役割を国司から郡司へと変え、完成のあかつきには郡司の世襲を認める特典を打ち出したので、造営が一気に加速し、全国68州に国分寺と国分尼寺が建ったそうです。

門内正面にある庫裏・書院 茅葺屋根が珍しいですね

本堂は右手奥にあります 庫裏の並びで創建時の講堂跡地か?
国分寺は国府の近くに造営され、国府の管理のもと運営されました。
しかし、時代が下がってその律令制度そのものが弛緩して来ると運営が困難になり、廃寺となるものや他宗派の寺院に置き換わって行きます。
現在、53の寺院が国分寺跡地に存在するそうですが、聖武天皇の理念通りに存続してる寺院はひとつもありません。

本堂の前にある七重塔の跡碑

【備中国分寺】
備中国府のあった吉備地域は、古くからの豪族“吉備氏”の拠点として栄えた地域であり、国分寺の造営もいち早く為された国でした。
現在、この場にあるのは備中国分寺の後継寺で、真言宗の日照山国分寺です。
全国の国分寺で唯一五重塔を持つ寺であり、古墳地帯“吉備路”の田園風景の中に塔を中心にした寺院が建つ姿は、創建当時の“国分寺”の雰囲気を最も良く残す寺…といっても良いかも知れません。

最後に五重塔に行ってみます

特有の木組みと彫刻が堪能できます 難しい建築ですが、ズレやネジレが生じてないのは城の天守より凄いですね
寺歴の変遷はよく判っていませんが、南北朝争乱の頃、“寺院と七重塔が焼失した”記録があるそうですから、長命だったのかも知れません。
一旦廃寺となった国分寺を再興したのは戦国後期の領主で毛利氏の傘下だった高松城主:清水宗治だそうです。
秀吉の水攻めで有名な武将ですね。

一層目の上部には、干支の彫り物が一面に三体づつ施されています。左から辰、卯、寅

心柱の根本にある仏像は年一回のみの公開だそうです
宗治の興した寺はその後また廃寺となりましたが、江戸中期になって岡山藩主の肝煎りで再興されたのが現在の日照山国分寺の様です。
(五代藩主:継正の頃か)
さらに10代藩主:慶政の時(1845年頃完成)五重塔が建造され、国の重文となって現存しています。

敷地内にはこうした石像が野仏っぽく随所に作ってあります

土塀越しの鐘楼も良い雰囲気でした
国分寺は全国に68院が建立され、伊勢国は残念ながら残っていませんが、その多くが後継寺で繋がっています。
皆さんもぜひ自国の国分寺を訪ねてみてはいかがですか?