(広義の)喜多院めぐり、最後は南院です。
【南院】
南院は仙波東照宮と中院にはさまれた街区に有ったと思われます。
思われる…というのは、明治の初めに廃寺となり、完全に市街化してしまっているからです。
ただ、この街区の東の端の一角に古い石塔婆や仏像が林立する小スペースが残っていて、南院の一部だったと伝承されています。


南院の遺構と言われる塔婆群 後方の森は中院です

無量寿寺北院に住職として入り、喜多院と改名して東照宮を建てたのは天海僧正であると先に述べましたが、天海は他にも江戸城および江戸の街設計にも大いに活躍しています。
むしろ主導していたと言っても良い活躍ぶりは周知の事実で、寛永元年(1624)、将軍家光はその褒美として天海のかねての望みを叶えます。
『惟任日向… いや天海大僧正、上野の山に寺院を建立されよ』
天海は江戸城の北東に鎮護の寺が必要だと主張しており、これを容れる形で寛永寺が建立されました。
それまで上野の山には津藩、津軽藩、村上藩の下屋敷がありましたが、すべて追い出されています。
寛永寺は東叡山(東の比叡)を号し、江戸時代を通じ延暦寺をも従える天台宗総本山として絶大な権力を持ちます。
しかし戊辰戦争江戸城攻囲の折、新政府軍への恭順を善しとしない旗本衆“彰義隊”が篭ったのがこの寛永寺でした。
結局僅か1日の抗戦で鎮圧されてしまうのですが、新政府軍の集中砲火を浴びた寛永寺の伽藍は殆んどが焼け落ちてしまいます。
戦後、なんとか寛永寺を再興したい天台宗では、近場にある川越の南院を廃寺とし、その堂塔を上野に移築して再建する途を選択した様です。


以上、喜多院と周辺の三寺一社を巡りましたが、しかし徳川家はなんでこうも天海を重用したのか…、がぜん天海への興味が湧いて来ました。
ちなみに喜多院の住職になる前の天海はと言えば、上野世良田の長楽寺の住職だったそうです。
なるほど… 世良田にも行って見る必要がありそうですね。
【川越歴史博物館】
帰路、喜多院の近くで小さな歴史博物館を見つけたので、新たな情報ネタでも見つかれば…と入って見ました。
『川越歴史博物館』とありますが、公営のものではないらしく、オーナーぽい年配の男性が店番していました。

喜多院の参道入り口にある歴史博物館 看板に偽りはありませんでした
ちいさなビルの1~3階が展示室になっていて、1階の展示品を見る限り、趣味性の高い愛好家の道楽(失礼)にも見える骨董店ぽい博物館です。
拝観料400円を払って中に入ると、いきなり店主…いや館長が奥から火縄銃を持ってきて、渡してくれます。
『持ってみて、本物ですよ!』
火縄銃は正直何度も持った事がありますが、本物です。 しかも、やたら完成度が高い、銃身が細長い、江戸時代後期の作と思われる銃でした。
ここの目玉は3階にある甲冑のコーナーらしく、『ゆっくり見てください、すべて戦国以前の本物ですよ!』…と自身有り気です。
まぁ、博物館にあるんだから、本物だろうな…と、軽い気持ちで見て行きます。

1階にある川越城主の佩刀
1階は江戸期の川越藩の展示で、役人の捕り物道具と忍者道具が充実しています。
2階は一転して古代の古墳副葬品が揃っています。
そして3階。
オーナーの言葉通り、おそらく実用に供したと思われる甲冑と兜がズラリ並んでいます。

おぉ、これは凄い!
百聞は一見に如かず…まずは、じっくりご覧ください。

武田騎馬軍団の赤備えの鎧…とありますが、侍大将級の山下弥三右衛門なる武将がどの隊に所属していたのかが判りません

銘:萌黄糸威胸赤連山道二枚具足 修理してないので古ぼけて見えますが、これもとても良い甲冑です

この兜の前立て=新田義貞 とイメージしてたので、こうなると、ウ~ン、唸るしかない
新田家の子孫の旧家の土蔵から発見されたのだそうです


大袖の無いデザインとこの色使いは山内上杉家当主の甲冑に似ています

非常口の脇に無造作に飾ってますが、これ、小西行長の軍旗ですよね?

続いて兜を見て行きます。 意匠に凝った個性的な変わり兜が戦国時代の大きな特徴です




びっくりして腰を抜かしそうになったのがこの二つ。
又兵衛のは大坂入城に際して造り、持参したものらしいです。
ところが、こんなもんで驚いちゃいけません…

ま、ま、ま、ま、ま、まじですか!!

いかがでしょうか? 正直、こんな(またまた失礼!)博物館でこのレベルの品に出会えるとは思っても見なかったので、まだ混乱しています。
個人経営の館だからこそ、地域や自治体を超えた収集ができるのでしょうが…。
ともかく、近くの方はぜひ、遠くの方も川越にお越しの際は訪れて見てください。
完