喜多院訪問の3回目は、仙波東照宮建立のため移転を余儀なくされた中院を訪ねます。
 
中院
 中院は仙波東照宮から1街区隔てた南側に現在もあります。

正式名は天台宗別格本山  星野山無量寿寺 中院

円仁上人の創建当時と変わっていないという事ですね。
 
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中院の山門は観光客も居ない静かな環境で、“お寺らしい”佇まいでした
 
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仙波東照宮を出て南へ200mほどです
 
 江戸時代になるまで、無量寿寺の中心の役割を果たした中院には、天台宗の学問所である仙波談義所なども置かれ、喜多院とは違った、いわゆる正統な機能を果たした寺と思われます。
 その形態は現在も変わらず、観光地化した喜多院に対して、檀家を中心にした宗教施設の機能を粛々と果たしている感じが見てとれます。
 喜多院は少し離れてる事もあってか、観光客は殆んど来ない様で、当日もほぼ貸切り状態で見れました。
 
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本堂には人の気配もなく、静かでした
 
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 ここの建物も創建は喜多院と同じ時代ではありますが、本堂は川越大火後の少し間を置いた享保18年(1733)の再建であり、昭和になってからの火災で焼失した堂塔もあって、近年再建された事から、重文の指定を受けるには至っておりません。
 
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 中院の見どころとしては、島崎藤村が建てた茶室不染亭があります。
藤村の二番目の妻:静子は川越の出身で、母親のみきさんは茶道の師匠だった事から、義母に贈った茶室らしいです。
 妻は24歳も年下だったので、義母は藤村と同年代だった様でとても仲が良く、川越には藤村の足跡が多く残されています。
そんな関係でか、茶室はみきさんの墓とともに中院に移築された様ですね。
 
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色々あった島崎藤村ですが、二番目の妻は大切にした様ですね。
 
 お茶つながりになりますが、川越地域は狭山茶の産地で、中院には狭山茶発祥の地の碑もありました。
 無量寿寺を開基した円仁は都から茶の実を持参して、中院の境内に薬用として植えたのがその始まりだそうですが、一般に栽培されだした頃は川越茶がブランド名だった様ですね。
 しかし川越は低地で水利も良いので、稲作に向く事から次第に茶園は狭山丘陵の方に移動して行き、狭山茶で定着した様です。
 
 
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手前の茶の木にピントが合って、碑文がよく見えませんね(^-^;
 
 
 
 中院を後にする頃には昼を大きく回っていたので、ここでガソリン補給に向かいます。
 喜多院周辺に飲食店はたくさん有りますが、あまり迷わず川越に幾つもの店舗を持つ老舗の川越そば『寿に入ります。
 
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川越で美味しい蕎麦屋は?と尋ねると、必ず出てくる店です
 
 茶どころだけに“茶そば”が名物らしいのですが、ここは蕎麦の味を確かめたいので、ざる+舞茸天の定番で注文します。(そういえば川越で蕎麦食べるの初めてです)
 しかし、出てきた蕎麦は太さ均一の機械製麺の極細麺で、六割くらいなのか、そうめんみたいな食感でした。
 
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舞茸も細かく裂きすぎ… 琥珀色のガソリンを補給できたから、まぁいいか(^^) 
 
 でもこれは個人の嗜好なので、たまたま野趣あふれる手打ち麺とは違っただけで、川越で人気なのはこういう上品な感じの蕎麦なんでしょうね。(後でネットで調べたら、二八蕎麦を謳っていましたがはて?)
 
④南院へつづく