喜多院をひと通り観終えたので、続いて周辺の関連する寺社を観て回ります。
まずは隣の仙波東照宮から。
喜多院から隣の仙波東照宮へ 間には城並みの深い空堀が穿ってあります 由緒ある寺社は自衛力を持ち、武装勢力としても侮れない存在だった証しです
【仙波東照宮】
元和2年(1617)に死去した家康の遺体は、一旦駿府の久能山に葬られましたが、翌年、日光東照宮の完成を待って改葬されます。
この葬送一切を取り仕切ったのが天海僧正で、天海は日光に向かう途中の江戸に近い川越の喜多院で法要を執り行いました。
正門となる“随身門”から入って行きます 日光東照宮をイメージすると、かなりコンパクトですね
随身門を入ると有る石鳥居 川越藩主:堀田正盛が奉納したもので、寛永15年(1638)建立と、仙波東照宮で最も古い建造物です
その先の急な石段の上に、拝殿が見えています こちらは二疋両ではなく三ッ葉葵紋ですね
その法要の地にも東照大権現を祀る社の要を説いた天海の主張は認められ、創建されたのが仙波東照宮です。
用地は喜多院に隣接する場所として中院が選ばれ、中院は200mほど引っ越しを余儀なくされ、南院の更に南側に移動しています。
拝殿です 平日なので鍵が掛かって入れませんでしたが、彫刻もそれほど多くなく、かえってバランス良い感じがします
拝殿の両脇には歴代の川越藩主が奉納した石灯篭が並びます
フェンス越しですが、拝殿の奥の本殿が見えます
本殿は多めに彫刻が施されていますね
四角い方墳の上に建造された東照宮 中央からの登り口は急でしたが、角に造られた降り口は緩やかです こちらを“女坂”と言うそうです
堀には島が作られ、弁財天が祀られています
仙波東照宮を含めた久能山、日光東照宮三社は、幕府直営の施設として維持・管理され、寛永15年(1638)の川越大火で焼失すると即座に再建がなされました。
現存する本殿を含む多くの建物はこの時に造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。
【仙波山ってどこさ?】
昔からの古墳地域で仙波山と呼ばれていた喜多院の域内にある仙波東照宮。
久能山、日光と並び徳川家康を祀る三大東照宮のひとつです。
維新の戊辰戦争の頃、此処には新政府軍の熊本藩兵の部隊が駐屯していたそうで、境内では地元の子供達と兵士達の交流の場面が見られ、その一場面の様子が手鞠歌になって残ったという説があります。
『もしもし、お侍さん』
『なんね? どげんしたと?』
『あんたがた、どっから来なすった?』
『肥後から来たとばい』
『肥後ってどこさ?』
『どこさ? …熊本さ』
『熊本のどこさ?』
『(しぇからしかねぇ~…) 船場さ』
『へぇ~、この山も仙波だべ』
『ほんのこつね?』
『仙波の山には狸が居るべ(家康祀ってる)』
『そげんね。 したら、こん鉄砲で獲らんね』
………
童歌:あんたがたどこさ の元になった最初の掛け合いの一節、熊本潘兵と子供達の会話を想像してみました。
手毬唄としての発祥はもちろん熊本でしょうが、熊本では語尾に“さ”を付けた会話は聞いた事ないし、一理ある気がします。
きっと、川越の子供たちとの掛け合いを熊本に帰ってから語ったものが、口伝に広まって歌になったのでしょう。
川越城内にある三芳野神社も童歌:とおりゃんせ の舞台だと言われるし、川越は童歌の宝庫ですね。
神社の境内は何処でも子供の遊び場でしたね。 熊本藩士も故郷の子供を思いながら、ほのぼのとした交流があった事と思います。
その③につづく