川越市に来て一ケ月が過ぎました。
住環境も落ち着いて、ぼちぼち活動を始めていますが、今日は前から来たいと思ってた喜多院に期待を持ってやって来ました。
 
 喜多院とは?
川越の市街地のど真ん中にある、徳川将軍家の庇護を受けた関東でも有数の“お宝満載”の有名な寺院です。
 
 
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本川越駅から東へまっすぐ歩いて行くと、この参道があります
 
喜多院の開基
 そもそも、平安時代の初め(830年)に淳和天皇の命で天台宗座主の円仁が建立した、天台宗の寺院『無量寿寺』です。
ご存知でしょうが、“無量寿”とは阿弥陀様そのものを指します。
気合の入った名前ですが、天皇自ら遣唐使僧に開基させた寺で、その規模も“北院”、“中院”、“南院”の三院からなる壮大な寺院でした。
 
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“星野山喜多院”が現在の正式な名前の様です
 
 お寺には本山、別格本山などの格付けがあり、詳しい事は判らないのですが、言わば東国の“東大寺”みたいなもんですかね?
 鎌倉時代の伏見天皇は“関東天台宗の本山”の称号を与え、その後の後伏見天皇は“東国580寺の本山”といった格別な扱いをしていますから、天皇の勅願寺だったのかも知れません。
 
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最古の建造物の山門は六脚門で、番所が一体に組み込まれています
 
 
戦国期の荒廃と徳川家による保護
 戦国期になると北隣に河越城が築城され、扇谷上杉氏の居城になります。
その後、長尾景春の乱、享徳の乱、そして後北条氏との戦いの舞台となった河越にあって、寺は荒廃し、1537年の北条氏綱による河越城奪取の際には多くの伽藍を焼失した様です。
 
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 豊臣秀吉の北条征伐の結果、関東には徳川家康がやって来ます。
家康はなぜかこの無量寿寺の庇護に熱心で、特に北院のみをターゲットに、信頼する天海僧正を27代住職として送り込み、喜多院と名を改めて再建に力を注ぎます。
 それまで中院が三院の中心として機能していた無量寿寺の構成は大きく変わりました。
初代の川越藩主となった酒井忠勝も堂塔伽藍の再建に力を尽くしました。
*天海は徳川幕府の草創期を支えた一人ですが“明智光秀”説があったりして興味深い人です
 
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山門の南にある鐘楼門は神社風の門です 喜多院と東照宮が一体で機能してた証拠ですね
 
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慈眼堂は寺域の一番高い“土盛り”の上に、背後の歴代住職墓所と一緒に建ってます
 
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本堂となる慈恵堂は初期の仏教寺院の雰囲気があります 
 
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そして比較的新しい多宝塔
 
 元和2年(1616)、家康が死ぬと天海僧正はここで法要を行ない、中院を南に移転させて跡地に仙波東照宮を造営して、家康の御霊を祀ります。
 この庇護方針は2代秀忠、3代家光、4代家綱へと受け継がれ、寛永15年(1638)の川越大火で伽藍の殆んどを焼失した喜多院でした、翌年には再建が始まり、特に家光の意向のより、江戸城西の丸御殿の一部が急遽移築されました。
 
 喜多院の仏事に支障を来たさぬ様、最大限の配慮がなされた様で、江戸時代はこの様に徳川の手厚い庇護のもと、喜多院は隆盛を極めました。
 
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ここからは江戸城移築建物 庫裏から入っていきます
 
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 ところで、なぜ家康はこうも手厚く庇護したのかという疑問なのですが、ここからは憶測の話になります。
 関東移封から征夷大将軍の宣下~江戸幕府開幕に至るまで、家康は数多くの朝廷工作をしています。
 
その条件の中で、朝廷からは淳和天皇の思いが込められた寺院の荒廃を嘆く声が出て、朝廷との関係を重んじた家康は金銭の供与だけでなく、そうした精神象徴の復興支援により大きな価値を求めたのではないでしょうか。
 
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客殿へと続く廊下 残念ながら、ここからは“室内撮影禁止”です
 
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書院の中庭 正面が“春日局化粧部屋”(8畳×4)です
写真はありませんが、上品な調度や葵紋入りの道具類が多数展示されています
 
 
 現在の江戸城(皇居)には一部の櫓と門は遺されているものの、御殿建築はその一切が失われています。
 
ある意味、本物の江戸城を見るのはこの喜多院でのみ可能なのです。
 
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北側は枯山水の庭園になっています サルスベリが綺麗に咲いていました
 
 
最後に、喜多院の建物群をまとめると
 
 
 
  1.客殿- 寛永15年(1638年)建立。(国重要文化財)「徳川家光誕生の間」がある。
 
  2.書院- 寛永16年(1639年)建立。(国重要文化財) 「春日局化粧の間」がある。
 
  3.庫裏- 寛永15年(1638年)建立。(国重要文化財)
 
  4.山門- 寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。(国重要文化財)喜多院で現存する最古の建物。
 
  5.楼門(附:銅鐘- 元禄15年(1702年)建立。(国重要文化財)
 
  6.慈眼堂- 正保2年(1645年)建立。(国重要文化財)慈眼大師天海を祀る。天海正の木像が安置されている。
 
  7.仙波東照宮(国重要文化財)
 
  8.慈恵堂(県指定有形文化財) 中央に慈恵大師を祀り、左右に不動明王を祀る。
 
  9.多宝塔(県指定有形文化財)
 
まさに建築文化財の宝庫ですね。
 
 
 
 
 
五百羅漢
 
 由緒のある建築物だけで大満足な喜多院ですが、もうひとつの見応えのある名所として日本有数の五百羅漢があります。
 
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538体あるという仏様
 
 
 五百羅漢とは、お釈迦様の生前の教えをまとめる集まり仏典結集に集まった弟子が五百人いた事に由来するそうですが、仏像になった弟子ひとりひとりの表情がとても個性的で見応えがあります。
 
 喜多院の五百羅漢は天明2年(1782)~文政8年(1825)間にわたって作られたもの、一体一体がとても丁寧に作られています。
 
 
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 何でも、深夜にこの羅漢の頭を撫でて回ると、必ず1体だけ温かいものがあり、その仏像は自分の亡くなった親の顔なんだそうです。
 
 試しに昼間ながら何体か触ってみましたが 
この仏様が一番温かく感じたかな^_^;
 
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その②につづく