下総春日部家の祖は紀氏(きのし)だそうですが、紀氏は奈良県生駒郡辺りを本拠にした古代からの豪族で、古くから朝廷に仕えた名門貴族でした。
 
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こういった“山車”も有る様ですが、やっぱり曳き手が居ないんかなぁ?
 
   紀氏といえば土佐日記を書いた紀貫之が有名ですが、こちらは傍流で、春日部家は嫡流の紀長谷雄(きのはせお)の流れを汲みます。
長谷雄も貫之と同様に優れた歌人として有名で、竹取物語の作者ではないか? と言われてる人ですね。
 長谷雄が活躍した平安初期は平和で安定した時代で、豪族も文化人としての能力が第一だった時代です。
 
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 下総春日部家に繋がるのは長谷雄の8代後裔の實直で、武蔵国衙の役人として赴任した實直は、武蔵国荏原郡大井に領地を貰って大井實直を名乗りました。埼玉の大井町ではなく、東京の大井競馬場の大井ですね
 實直の子の時代になると5人の子はそれぞれ領地を貰って独立しますが、品川、堤、塩田などと名乗っていますから、近隣の東京湾に面した土地です。
 
 
初代:春日部實高
 四男の實高だけには少し離れた下総国下河辺荘の春日部が与えられ、春日部實高を名乗りました。 この實高が春日部家の始まりと考えられます。
 下総国下河辺は源頼政の領地ですから、實高は頼政の郎党として就職したという事らしいです。ただ、藤原秀郷系の下河辺氏が地頭職でしたから、實高はどんな役目を果たしていたのでしょうか?
 
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春日部家が館を構えた跡といわれる浜川戸の八幡公園
 
 
 治承4年(1180頼政は後白河帝の皇子である以仁王を担いだクーデター(鹿ケ谷の変)に失敗し自害します。
 實高は主を失ってしまいますが、同時に以仁王の綸旨に呼応した源頼朝が伊豆で挙兵し、関東の反平氏勢力が次々に馳せ参じます。
 實高の兄大井實春を頂点とする大井一族も駆け付けた事は容易に想像できるので、春日部家も共に源氏勢力として源平合戦を戦ったのでしょうね。
 
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公園内には古墳もあり、低いながら北側に丘を形成しています
これ、殆どが利根川の砂で、冬場の空っ風に運ばれて積もったものだそうです
 
 實高の兄の大井實春は頼朝の身辺警護をするお気に入りで、吾妻鑑に大井實春の縁者の春日部某が壇ノ浦の戦況を報告した…ありますから、實高もしくは嫡男の實平の事かも知れませんね。
 ともかく平氏追討に活躍した春日部家は頼朝政権のもとで鎌倉御家人の地位を確立した様です。
 
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3代:實景が館内に勧進したという稲荷神社
 
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稲荷神社の由緒書き
 
 
【2代:春日部實平 
 前回はこの實平の頃、伊勢の平盛国の子孫:富田三郎家資との間に縁戚が結ばれ、家資の子:泰資から春日部を名乗ったという伊勢春日部家発祥の仮説だったのですが、それを補完する様な、否定する様な両刃の史実が判りました。
 元暦元年(1184大井實春は伊勢に出陣し、伊勢平氏の残党平田家継や伊藤義清らと戦って鎮圧し、同国の桑名郡に新たに所領を与えられています。
 この戦いに一族の春日部家が従軍した事はほぼ間違いなく、伊勢で富田家資や泰資と何らかの接触があった可能性はあります。
 だが、大井春が新たな所領の管理に春日部家の誰かを残して、それが伊勢春日部家の祖になったという見方もできる訳です。
 
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一帯はしっかり発掘調査が行われ、遺物の出土(物証)を以って館跡と断定された様です
 
 私個人の見解は、平氏、南朝の地盤で反体制志向の根強い北伊勢は統治が難しいので、その後春日部家の繁栄や関氏(平氏)との結びつきの強さも勘案すると、やはり前者だなと思う次第です。(結局変わってない
 
 
3代:春日部實景
 この様に、鎌倉幕府の安定に活躍した春日部家は次の實景の頃になると幕府内での地位も上がり、有力御家人に列する事になります。
 しかし頼朝が死んで、有力御家人の勢力争いが始まると春日部家もそれに自ずと巻き込まれて行きます
 
 1200年梶原景時の変、1203年比企能員の変、1205年畠山重忠の乱、1213年和田合戦といずれも鎮圧側で活躍し、1219年の実朝暗殺の場面では実朝の隊列の一人に加わっていた様です。
 しかし、宝治元年(1247)實景は宝治合戦では三浦泰村に付き、敗れて嫡子の4代:広實とともに自害してしまい、下総春日部家の嫡流は滅亡しました
 
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浜川戸の丘には特に防塁や堀の遺構は見当たりません
 
 その後しばらく、下総春日部家としての記録は無くなりますが、大井、品川などの名は出てくるので、一族は御家人として存続してた様ですね。
 また、吾妻鑑などの記録に春日部の名は散見されるそうです。これが何処の春日部家なのか吾妻鑑をきちんと紐解いて見る必要がありそうです。
 いずれにしても下総春日部家の支流はこうした同族の中に紛れて、または野に下って雌伏していた様です。
 
 
?代:重行
 そして春日部家が再び歴史の舞台に現れるのは、ほぼ100年後の延元元年(1336)、鎌倉時代の最末年で、新田義貞に寄騎した春日部重行(時賢)が、鎌倉攻めの戦いで武勲を挙げ、後醍醐天皇より“かつて春日部實景が支配していた旧領を安堵する”という形で、下河辺荘春日部郷の地頭職に帰り咲きます。
 
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重行が鶴岡八幡宮から勧請した春日部八幡宮 稲荷神社の隣にあります
 
 重行(時賢は春日部郷に戻るにあたって、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して春日部八幡宮を建て、その隣地に館を造営したそうですが、現在、この春日部八幡宮の隣にある春日部稲荷神社は、かつて春日部實景が自身の館内に勧請した“屋敷神”であると言われ、こうした行為から見ても重行は同族、それも直系に近い子孫である可能性は極めて高く思えます。
 
 建武の新政後、重行は京で後醍醐天皇の傍に仕え、武者所に詰めていたそうですが、一旦九州まで落ちていた足利尊氏が再度上洛して来ると決戦に向かい、鷺が森で討死にしました。
遺体は荼毘にした後、嫡子の家縄が春日部に持ち帰り、館に近い最勝院に埋葬したそうです。
 
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春日部重行の菩提を弔う最勝院
 
 
 
【その後の春日部家】
 重行の子:家縄についてのその後の消息は判らず、埼玉県春日部市での調査はこれにて打ち切りとなります。
 
 南北朝期には変わらず南朝方に与していたという漠然とした記述はありますが、何処に居たかは判りませんでした。
 南朝方つながりか、ここで伊勢春日部家(萱生氏)の名前が出て来ますが、萱生氏が春日部を名乗ったが詳細は不明で終わっています。
 
 最後に室町末期の春日部家は越後長尾氏の配下であったらしいと結んでいますが、これは先の所領安堵の綸旨が米沢上杉家に残されていた事、文明12年の上杉房定(越後守護)の文書にその名が見える事に依るものでしょう。
 上杉といえば足利尊氏の母方の家で、バリバリの北朝勢力なんですが
 
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最勝院本堂脇にある重行の首塚
 
 室町期の関東では鎌倉公方の足利氏とその家宰で関東管領:山内上杉氏の争いが長く続きました。
 これには宗家を支援する形で越後上杉氏も深く関わり、その軍勢は守護代の越後長尾氏が率いて来ます。
 関東に居た春日部家の嫡流が永享の乱~結城合戦の動乱の中で長尾氏傘下に組み込まれた可能性は大いにありますね。
 
 会津若松市のホームページに『会津若松市高野町平塚地区は南北朝時代に埼玉県春日部市を支配していた春日部氏が越後経由で上杉氏と共に会津へ移った時入った所』と書いてありますから、これは事実でしょう。
 
 これとは別に関東に残った春日部家の支族も居て、岩槻太田氏、古河公方、北条氏と主を変えて存続し、最後は豊臣秀吉の小田原征伐で岩槻城に籠って戦った末に降伏開城して、領地を召し上げられ、会津の春日部家を頼って移住したそうです。
(前出の館長は忍城に籠った説もあると言ってましたが
 
 そして最後に、江戸時代後期、会津の春日部一族の多くは遠縁のいる伊勢国に移住したという件、これについては福島県か三重県で実証するしか無さそうですね。
 
 
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伊勢春日部家の本拠:萱生城図(日本城郭体系より)
 
 ちなみに現在の春日部さん、全国には480人ほど居られるそうで、一番多いのはやはり三重県在住で180人(そのうち四日市市に150人)、他は福島県、愛知県に各70人ほど、岐阜県、静岡県、宮城県にも若干居られますが、埼玉県には0人だそうです。
 
 
 
おわり