一昨年の秋から伊勢の北勢48家を取り上げ、順次調査・レポートしています。
北勢48家(以下HKS48)とは戦国期に伊勢の北部に割拠していた小豪族群で、周囲の戦国大名と交誼を持ちながらも、決して吸収される事なく、時に争い時には連携して独自の存在を維持していた、極めて稀な豪族集団でした。
その発端は源平合戦にまで遡り、平氏の地盤だった伊勢に源氏政権である鎌倉幕府は、与党となった国人領主に加え、地頭として坂東の御家人をも移住させて支配を試みます。
この構図は室町時代も続き、幕府は南朝の地盤となった伊勢に坂東武者を移住させました。
そんな代表の家として、既に赤堀家と春日部家を取り上げていますが、その後に御子孫の方から何通かコメントを頂き、両家の故郷と一族でも関東に残った家とその活躍に興味を惹かれていました。
今回、関東に来たので、さっそくこの機会に赤堀と春日部に出掛けて追跡調査をして見ました。
まずは赤堀家のレポートからです。
【上野赤堀家 調査】

盛夏の上州(汗) 本当ならこの方向に綺麗な赤城山が見えるのですが…
赤堀郷は群馬県の南東部にあって、古くは佐位郡赤堀村、近年までは佐波郡赤堀町でしたが2005年の市町村合併により現在は伊勢崎市赤堀になっています。
広大な関東平野でももう北端に位置する伊勢崎は、北に聳える赤城山にむけて緩やかに登り始める場所で、地形にもなだらかな凹凸のメリハリが有る場所です。

閑静な赤堀の街並みです

四日市は“あかほり”ですが、こちらは“あかぼり”
まずは旧赤堀町時代からあった歴史民俗資料館から訪ねてみます。
赤堀歴史民俗資料館は旧赤堀町役場の東側にあり、周囲には運動公園や文化ホールなどが立ち並ぶ町の中心だった所にあります。
“和”を感じさせる二階建ての立派な建物で、入館は無料でした。さっそく観覧させてもらいます。

一階は古墳時代の展示がメインで、当時の毛野国にあたるこの地は遺跡が豊富で、土器を中心とした遺物も充実していています。
しかし、今日の目的とは違うので、早々に次の時代に移るべく二階の展示へと足を進めます。
二階は前時代の上野の代表的な産業といえる“生糸産業”がメインの展示でした。
それも、製糸業というより、各戸の農家で行われていた“養蚕”ですね。
我が生家でも少しやってた記憶があるので、懐かしく見させてもらい、一階のロビーへと降りて行きます。

かつての毛野国の中心だけに、古墳時代の遺物は豊富ですね
あれ? 赤堀家はもちろんの事、戦国時代を含む中世史そのものが無かった!
ホールにある各種パンフなどを片っ端からチェックしても、それらしいモノは何もありません…。
最初から出鼻をくじかれた感じで途方に暮れながらも、通り掛かった職員さんに聴いてみます。
『あの… 戦国時代の赤堀家の資料は無いんですか?』
『赤堀家…ですか? ん~…しばらくお待ちください』
ほんの少し不安な時間が流れて、『お待たせしました』と、すぐに若い男性の職員さん(学芸員さん?)が現れました。

たくさんの資料を出してきて、丁寧に説明してくれた学芸員さん ありがとうございました
訪問の主旨と三重県から来た事を伝えると
『あぁ…以前にも同じ主旨で三重県から来られた人が居ます。 あちらにも赤堀さんが居られた様ですね?』
え?その程度の認識なの?…と不安になりますが
『赤堀家については資料が乏しく、正確な史実が確定できず、特に遺品も伝わっていないので、展示するモノが無いんです』
というのが現状の真実の様ですね。

歴史民俗資料館から西へ300mほど 赤堀城址があります
話を聴いてた少し年配の学芸員さんも加わって、断片的な知識を教えて貰います。
『赤堀家は北隣の山上家と抗争していた』
『すぐに金山の由良家を頼って移動したので、どの程度の期間ここを支配していたのか判らない』
『赤堀城(今井城)に居たのは小菅摂津守の方が長かった』
んんん?…事前に調べた情報とは少し違う話が出て来ます。
『赤堀家は北条が滅びると駿河に移って、その後名古屋の近くの大名家で家臣として続いた。 その家から古文書が見つかって、群馬県が買い取り、企画展をした事がある』
これは全く知らなかった、新しい情報ですね。

城址の大半は耕地になっていますが、主郭の土塁が綺麗に残っています

その後こちらから伊勢の赤堀家の事を調べた範囲で説明すると、『伊勢の家の方が活躍してたんですね!』という反応でした…。
『その話、前に赤堀村史で読んだ記憶があります!』と若い学芸員さん。
さっそく“赤堀村史”と“赤堀町史”を持ってきて下さり、私の説明と符合すると、少しは信用して貰えたみたいで、しばらく周辺の情報で話の花が咲きました。

北虎口の食違い部分は見事です

西側の川沿いにも土塁が続いてる
結局のところ、赤堀という地名を踏襲はしてるものの、赤堀家自体にさほど華々しい史実が無く、資料も無い為に“判らない”まま特に拘りも無く、研究も進んでないのが実態の様です。
『群馬県でも中世史を専門に研究してる人は1人しか居ない』… らしくて、とても戦国時代らしく面白い場所だと思うのですが、興味を持つ人は学者さんでも皆無に近いようです。
講演会を開いても、題目がマイナーだと人が集まらないから、仕方ない所ではあります。

本丸内部は500坪以上の広さがありますね

西側の堀の役目を果たす粕川 山内上杉が仮想敵?
ザッと読んだところ、この“村史”“町史”にかなりの深さを感じたので、該当する30ページほどを写真に撮らせてもらいました。
≪後編≫ではこの記述をベースに調査を展開して行きます。

粕川の脇に群馬らしい、養蚕農家の廃屋がありました
≪後編≫につづく