日本200名城 №124 品川台場 東京都 登城日:2017.6.20

所在地 東京都港区台場
城郭構造 海上洋式砲台
通称 お台場
築城年 嘉永7年(1854)
築城主 徳川家定(13代将軍)
施行者 江川太郎左衛門英龍(幕府旗本、伊豆韮山代官)
遺構 石垣、土塁、弾薬庫 など
文化財指定 国の史跡
また東京にきています。
今回は有明で1泊2日のセミナーへの参加です。

1日目のカリキュラムは無事夕方5時に終わりましたが、時はまさに夏至の当日。
まだ2時間は明るいので、ブラリと散歩してみる事にしました。

と言っても、有明は東京湾の埋め立て地にある新興の街ですから、史跡の様なものなど有る筈もなく…
…と、レインボーブリッジの方角に眼をやると… ありました!

橋の袂にある人工の島は、品川台場です。
品川台場は江戸末期の海上砲台の跡で、『お台場海浜公園』の一部として史跡保存されています。
先ごろ発表された“続日本100名城”にも選ばれた、“広義のお城”なのです。

お台場海浜公園には人工のビーチが造ってあって、品川台場へとつながっています。
東京のコパカバーナ(^^)

こんなリゾートマンションもあります
品川台場の歴史は新しく、嘉永6年(1853)アメリカのペリーが艦隊を率いて来航し、開国要求した直後から企画され、即時に建設が始まった砲台陣地です。

江戸城は江戸湾に隣接する平城で、欧米の軍艦に江戸前まで入り込まれ、砲の筒先を江戸城に向けられたら抗する術が無い事はその前から認識されていて、外国船を内海に入れない『海防論』を唱える識者も数多くいましたが、その方法を巡っての対立もあり、具体化には至っていませんでした。
それがペリーの来航で危機感が浸透し、実現に向けて一気に走り出したものでした。

台場の入口に着きました。 石垣の高さは潮位にもよるが5m、その上に5mほどの土塁が盛ってあります 敵砲弾の緩衝ですね


とにかく、登って見ます
品川台場の建設を指揮したのは幕臣の江川太郎左衛門英龍で、当代急先鋒の海防論者でした。
英龍は品川沖に海上砲台を千鳥に配置し、洋式砲を設置して、通過しようとする軍艦に十字砲火を浴びせて撃退する事を提案した様です。

土塁上に第三台場の案内看板がありました 中は窪地でフラットです
此処に陣取って守備したのは忍藩松平家(奥平)だった様です



英龍はその前には長崎で高島秋帆から洋式砲術を学び、幕府軍と諸藩へ普及させて行っていました。
同時に洋式砲を内製すべく、反射炉の試作と実用化の研究も行っています。
“攘夷”を目的として、観念論だけでなく、実行施策までをセットで推進していた有能な幕臣だったのです。

江川太郎左衛門英龍 品川台場を提案、設計、施工しました
品川台場は品川沖の洋上に人工島を造り、海上砲台としたものですが、全部で12基もの砲台の建設が計画されましたが、英龍の指揮のもと突貫工事で建設が進み、ペリーが幕府の回答を受けに再来航した嘉永7年(1854)までの1年間に、既に3基の台場が完成し、2基が工事中の状況でした。

昭和22年の航空写真 5基の台場が残っています

これを見たペリーは江戸前への侵入を諦め、横浜まで退いて艦隊を投錨し、幕府との交渉を行ないました。
各台場には佐賀藩製の洋式砲が並べられ、守備兵は諸藩に割り当てられて、第一台場=川越藩、第二台場=会津藩、第三台場=忍藩という布陣だったそうです。

他にも石葺きの道や…

風呂釜(?)


台場の建設はその後も続けられ、未完成も含め計8基の台場が造られましたが、その間に交渉の中で“通商条約”が締結され、“開国”する事となって、結局台場群の大砲が火を吹く事は一度もありませんでした。


日没が近くなったので、急いで回ります
明治になり、品川台場は陸軍の所轄する陣地となりましたが、砲の性能が向上して行く中で、東京の海防は湾口の陸上砲台が担う事になり、役割を終えた台場は民間に払い下げられて、その姿を変えて行きます。




昭和になり、5基が残っていた台場も、高度経済成長の埋め立ての波に呑み込まれて、3基がその姿を消し、現在では第三台場、第五台場の2基のみが存続しています。


お台場は“都市博”かなんかで石原さんが大金を注ぎ込んだ街で、個性的な建物や公園がゆったりと整備されていますが、利用者はあまり見かけません

第三台場付近は都の事業で近年に開発が進み、“海浜公園”として大きく変貌していますが、台場自体は早くから国の史跡に指定され、公園として一般開放されていた事から、開発にも上手く組み込まれて、逆にエリア自体の名前も“お台場”に吸収する様に、誰もが訪れやすい史跡として親しまれています。

韮山は江川太郎左衛門家の領地でした
おわり