井伊氏居館跡から一路南下して龍潭寺(りょうたんじ)を目指します。
市街地を抜けて徒歩20分ほど、クルマで行っても良いのですが、歩いても苦にはならない距離です。
 
 
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 龍潭寺は天平5年(733)、行基による創建といわれる臨済宗の古寺で、虚空蔵菩薩を本尊として、最初は“地蔵寺”と呼ばれていましたが、井伊氏の菩提寺になる頃からは“自浄寺”と名を変え、井伊直盛が桶狭間で討死しここに葬られると、その法号から“龍潭寺”と改められました。
 
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神宮寺川の橋の向こうに龍潭寺の森が見えてきました 井伊谷は水が豊かな土地で、その水神の化身“龍”に因んだ命名とも言われます
 
 
 以前に来た(10年ほど前)時は、ひっそりと落ち着いた古刹感があったのですが、いつの間にか大駐車場と土産物屋が建ち、ひっきりなしに観光バスが出入りする、京都の有名寺院並みの一大観光地に変貌していました。
これだから、大河ドラマの誘致合戦が白熱する訳ですね。
 
 
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井伊家発祥の井戸  龍潭寺の南の外れにあり、井伊家初代:井伊共保が捨て子で発見された場所だそうです。
雰囲気は違うけど、ドラマでよく覗いてる井戸ですね。
 
 
 山門から入って、本堂、霊屋、庭園と人混みに紛れてひと通り境内を見学し、最後に井伊家の墓所にお参りします。
 
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山門 古刹の雰囲気が欲しくて、人通りが途絶えるのを暫く待ちましたが…
 
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霊屋には近づけませんでした。 人が多いと入場規制する事もあるそうです
 
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左甚五郎作と言われる棟飾り 私も左利きなので、顔を右向きに作る感覚は良く判ります
 
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墓所は墓石がビッシリ
 
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すでにご存知でしょうが、右から二番目が直虎です
 
そう広くはない墓地には、井伊家代々の当主や一族、名だたる家臣の墓石と、歴代住職の墓石が所せまし並んでいます。
住職といえば、ドラマの住職は南渓瑞聞ですが、その後を継ぐ住職は 意外や意外、傑山なんですね。
この人、本当に弓の名手だった様で、井伊直政の戦いには常に従軍する武将でした。
いわゆる“僧兵”ですが、この傑山の配役設定が一番史実に忠実なのかも知れません。
 
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『龍潭寺住職』 左から2世:南渓瑞聞、3世:傑山宗俊、5世:昊天宗建
 一方の昊天、こちらはお坊さんらしいお坊さんですが、傑山の次の次の住職を務めると同時に“彦根龍潭寺”の開祖でもあります。
 
 直虎の時代、関わる大大名の力関係の変化と当主の相次ぐ死で井伊谷は混乱し、井伊家の求心力も失われがちでしたが、菩提寺:龍潭寺のこれら優秀な僧侶が東奔西走して井伊家を維持していた側面を感じます。
本当の意味での井伊氏の本拠はこの龍潭寺なのかも知れませんね。
 
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龍潭寺に隣接して、後醍醐天皇の第4皇子:宗良親王を祀る井伊谷神宮があります
後醍醐帝は30人の女性との間に32人の子を成したそうです 凄い!
 
最後に井伊谷川沿いを下って、浜名湖岸の気賀まで行って見ます。
盗賊:龍雲丸の巣窟(これはオリジナルキャラでしょう)探しではなく、大河ドラマ館がこの気賀に開設されているので、ちょっと覗いてみます。
 
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気賀駅の傍の“みをつくしホール”に特設されていました
 
残念ながら撮影禁止で写真はありませんが、ドラマの小道具などが趣向を凝らして展示されていて、スタッフも多くて応対も良く、楽しめる施設になっていました。
 
 
 
 気賀の北側の丘に国民宿舎があり、その隣には周囲を一望できる展望台があります。
実は気賀に来た本当の目的はコレで、予想外に湖岸にまで広がっていた井伊氏の領地、それを一望して見たかった
いう事です。
 
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気賀の湊 その昔、浜名湖は海水の入る湾でした
 
 展望台からは気賀の街並みが真下にあり、埋め立てで少し遠くはなりましたが、浜名湖が右手に広がっています。
遠くには弁天島の砂州とその向こうの遠州灘まで見えます。
 
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 左手に眼をやると、井伊谷川と合流した都田川が横たわり、その向こうには刑部(おさかべ)、祝田(ほうだ)、瀬戸などの豊かな穀倉地帯が広がります。
 都田川は南に高い河岸段丘を造っており、祝田の坂から段丘を登って行くと三方ヶ原台地が広がって、遠く浜松の市街が見えます。
 
 
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三方ヶ原で徳川・織田に勝利した武田軍はこの地に逗留して越年しました
武田軍3万5千の兵で溢れかえる様子が眼に浮かびます
 
 元亀3年(1572)秋、圧倒的な強さで井伊領を蹂躙した山県昌景は、強烈な印象を残して二俣に去って行きました。
 二俣城を落とした武田勢はすぐに西上を始め、三方ヶ原で徳川勢と決戦します。
 この徳川勢の中には、井伊谷を逃れて合流していた井伊勢も少なからず居た筈ですが、どんな資料を探しても名前が出て来ません
 
 この戦いでも山県昌景の活躍は凄まじく、最後は家康を浜松城までとことん追い掛け回して、人生最大の恐怖をあわせました。
 家康にとってこの恐怖はいつしか武将とその軍団のあるべき姿としての憧憬に変わり、武田氏滅亡後の旧臣の積極採用につながり、120名の“山県軍団”の復活が果たされます。
 それを誰が指揮するかと思案した時、自分と同様にその怖さを脳裏に焼き付けている井伊家が選ばれた
こうした解釈もこの場に立って見ると自然な気がしますね。
 
 
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山県昌景の御子孫は笛吹川上流の温泉で旅館を経営されていて、玄関には昌景の鎧が展示されています
一度泊まってみたいのですが、かなりの高級旅館で敷居が高い^_^;
 
 井伊谷に来て、誰が主役か判らないレポートになりましたが、山県昌景がどう描かれるのかとても楽しみです。
 
 
 
おわり