仏坂から敗走した井伊勢の多くは、本拠の井伊谷城に入る事なく、まっすぐに浜松城へと向かったそうです。
 本来なら当主と共に、居城に籠って抗戦し、勝てないまでも敵を足止めして、敵の戦力の分散を図るのが筋だと思うのですが、指揮命令系統が乱れて弱体化した井伊家には、籠城など及びもつかないことだったのでしょう。
直虎もこの時は龍潭寺を出て難を逃れた様です。
 
 
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井伊谷城の登り口に着きました。
以前は細道に小さな看板があるだけだったと記憶してますが、これならすぐ判りますね。
さっそく登って行きます。
 
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登城路脇の山肌には、郭塁や竪堀を刻んだ跡もありません
 
 
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10分ほど一気に登ると、土塁と虎口が見えて来ました。もう到着です。
 
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山上の土塁の内側は削平された広場になっています
 
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広場は奥の方が少し高くなっていて…
 
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当主の御座所があった様ですが
 
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周囲には土塁痕があるだけで、なだらかなスロープで落ちて行き、さしたる防御の遺構はありません
 
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こんな説明看板がありました
 
 井伊谷城は山上を削平して一重の土塁で囲った、3~400坪ほどの曲輪のみの単郭の城で、虎口は登って来た南の大手のみの様です。
周囲にグルリと帯曲輪のように通路が走っていますが、これは後世のものかも知れません。
 北の尾根には堀切らしき構造も見えますが、狭く浅い上に郭に近すぎて、有効な防御構造とは思えません。
 
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山上から望む三岳城址(望遠レンズ使用)
 
 井伊谷では南北朝期にも北朝軍を迎えての戦闘がありました。
井伊氏は井伊谷城は放棄して、5kmほど北の三岳城に籠って戦ったと言われます。
井伊谷城は居館の詰め城ではなく、居館と一体になった館の一部と言って良いかも知れません。
その用途としては、まず一次避難場所機能であり、日常は領地を見渡す“物見台”といった所でしょうか。
 
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山上から見る井伊谷の里 斜面の木々が育ち過ぎて、足元が見えません
 
 
城山を降りて、居館跡を訪ねます
城山の南東の麓に公民館があり、そこに居館跡の案内板があります。
 
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公民館裏の道路が堀跡で、その先の民家が大手門 といった感じか
 
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どうやら堀を船で渡る構造ではなかった様ですね
 
 三ノ丸に『近藤陣屋』なるものがありますが、これは井伊家が彦根に去った後に、新たに井伊谷藩1万7千石の藩主として入って来た近藤家の陣屋ですから、少し後の遺構ですね。
初代の近藤秀用は、井伊谷三人衆のひとり近藤康用の子ですから、里帰りです。
 
 居館の北のはずれには、井伊直満の墓もある様ですね。
 
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井伊直満はドラマでは、宇梶さんが演じてましたが、早々に今川義元に殺害されてしまいました
 
 
 井平城を落とした武田軍の山県昌景は、続いて井伊谷城に攻め込み、殆ど無抵抗のうちに城を接収しました。
次は二俣城を囲む信玄の本隊との合流に東進する昌景は、後顧の憂いを断つために井伊谷の城館をすべて焼き払いました。
この時、龍潭寺も灰燼に帰したのだそうです。
 
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武田軍の放火で焼けてしまった足切観音堂
宗良親王の戦傷を身代わりになって防いだ観音様を祀っていました
 
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次は龍潭寺へと向かいます。
 
つづく