
登城日 2017年5月21日
城郭構造 平城
天守構造 御三階櫓 層塔型3重4階(岐阜城より移築?)
築城主 奥平信昌 (天下普請)
築城年 慶長7年(1602年)
主な城主 奥平氏、戸田氏、安藤氏、永井氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀跡
指定文化財 国の史跡
所在地 岐阜市加納町丸ノ内
1600年8月、岐阜城最後の城主織田秀信は、関ヶ原の前哨戦である岐阜城攻防戦で奮戦及ばず敗れてしまいます。
金華山上の本丸に籠り、自害しようとした秀信でしたが、かつての主君の嫡孫を死なす訳にいかない池田輝政の必死の説得で降伏しました。

剃髪した秀信は出家すべく高野山へと向かいますが、仏敵:信長の孫への反発は強く、高野山に入る事は叶わず、失意のうちに短い生涯を終えてしまいます。
天下の実権を掌握した徳川家康は、まるで信長の痕跡を消すかの様に、岐阜城を廃城とし、3kmほど南の中山道沿いの宿場:加納に新城を築城すると、信長がつけた岐阜の地名も加納に変えてしまいます。
加納の新城には、上野から奥平信昌が10万石で配され、加納藩主となりました。

水堀を多用した輪郭式の平城だった様です
奥平信昌といえば、あの長篠城の信昌です。
信昌には家康の長女:亀姫が嫁しており、要地を信頼できる大名に任せた…様にも見えますが、亀姫の母親は家康の嫡子で亀姫には実兄の信康と同様に、信長の意に添う為に自ら手にかけるしかなかった築山殿です。
これは…決して偶然とは思えませんね。
加納城は信昌が築いた…と前回書きましたが、本当は家康自身が縄張りし、本多忠勝を普請奉行に近在の大名にお手伝いさせて築いた“天下普請”だそうで、1601年の信昌着任時にはもうほぼ完成していたそうです。
家康の執念が篭った城ですね。

本丸と内堀の跡が残されています 石垣は5mほどの高さで残っていますが、水中の分を加算すると10mほどは積まれていたか? 堀は埋められて、公園や駐車場になっています
信昌は上野小幡3万石からの転任で、小幡の領地はそのままでの純増での招聘だった為、旧領は嫡子:家昌に譲って、三男:忠政を伴って加納に入ります。
翌年、信昌は隠居して忠政が家督を継ぎますが、病弱だったため35歳で死去し、嫡子の忠隆が3代目藩主となります。
しかし、忠隆もまた病弱で、僅か25歳で早世したため、加納奥平家は改易となってしまいます。
ちなみに小幡を継いだ家昌は、すぐに宇都宮10万石に加増転封となり、のちに豊前中津に移封して明治まで繁栄しました。
これとは別に、信昌の4男:忠明は家康の養子となって松平姓を名乗り、大和郡山、姫路、桑名などを転封して行き、最後は武蔵忍で明治を迎えます。
義士:鳥居強右衛門の子孫はこの家に仕えた様です。

改易となった奥平家に代わって5万石で加納城に入ったのは、大久保忠職でした。
忠職は大久保忠隣の嫡孫で、母は奥平信昌の長女ですから、ある意味姓を変えて相続した感じですね。
しかし在地7年で播磨明石に転封となり、以後は戸田松平家3代(7万石)、安藤家3代(6万5千石)、長井家6代(3万2千石)とつないで明治に至ります。

岐阜市は40万人以上の大きな都市です。
江戸時代の城下町が発展したこのクラスの都市では普通、城址に県庁や市役所などの官公庁が建ち、城址を中心に発展して行くものですが、ここ岐阜市に限っては、城址を蚕食してるのは個人住宅でした。

市の行政・経済・観光の主要な施設は岐阜駅と金華山の間にあり、繁華街の柳ケ瀬も駅北です。
一方、駅の南側の加納地区はといえば一面の住宅街で、有名な施設は“金津園”があるくらいか^_^;
家康の思惑とはうらはらに、現在の岐阜は“信長の岐阜城の城下町”の観を呈しています。
天井を落とした? 亀姫
今回の特集は奥平信昌の室で家康の長女でもある“亀姫”です。
亀姫は永禄3年(1560)、家康の長女として駿府で生まれました。
母は正室で今川家の分家:関口氏の娘:瀬名(築山殿)で、1歳上には同母兄で嫡男の信康がいました。

天正4年(1576)、16歳の亀姫は奥三河の国人で武田から徳川に寝返った奥平信昌に嫁ぎます。
これは長篠の戦で信昌が孤軍奮闘した褒美の様に言われていますが、武田の侵攻を止める事は家康にとって死活問題であり、背に腹は替えられない“調略の条件”だったのでは無いでしょうか。
いずれにしても、国主の長女が小規模な国人に嫁ぐなど他に例がなく、相当な“格差婚”だったのは確かです。

こっちでした(^^; 『女城主直虎』より 瀬名姫(築山殿)
そうした力関係を反映してか、単に母親の性質の遺伝なのか、亀姫は信昌が側室を持つ事を絶対に許さなかったそうです。
“逆玉”に載った信昌と奥平家… 家臣は喜んだでしょうが、信昌自身は針の莚の毎日だったかも知れませんね。
ただ、亀姫は信昌との間に4男1女の“家康の孫”をもうけており、室の役割は立派に果たしています。
亀姫に最初の不幸が訪れたのは天正7年(1576)の夏の事でした。
兄:信康に嫁いでいた織田信長の娘:徳姫が夫と姑との確執を信長に訴えた事から話が発展し、結局家康は嫡子と正室を始末してしまう道を選ばざるを得ませんでした。
実母と唯一の兄弟を同時に失った悲しみは察するに余りありますが、その背景を理解できる年齢でもなく、その怒りは父:家康に向けて蓄積された様な気がしますね。

亀姫画像 晩年の姿ですね *西浦温泉『葵』さんHPより借用
それでもその後の亀姫は平穏で、翌年に嫡子の家昌が生まれると、次々に4男1女をもうけます。
次男:家治は14歳で早世してしまいますが、他の子は無事に成人しました。
家運も順調で、徳川家康が天下人となると、奥平家もその恩恵には大きく浴する事になります。
まず夫:信昌が加納10万石に加増転封されると、翌年には旧領:小幡3万石を継いでいた家昌が宇都宮10万石に遇されます。
同年、信昌の隠居で跡は3男:忠政が継ぎ、4男:忠明は家康の養子に迎えられます。
唯一の娘も徳川秀忠の腹臣:大久保忠隣の嫡男に嫁ぎ、まさにこの世の春でした。

『真田丸』より 晩年の家康の腹臣 本多正純
亀姫の本当の不幸は慶長15年(1614)にまとめてやって来ます。
まず1月、娘の嫁ぎ先である大久保家が突然改易になってしまいます。
幕府内で家康の腹臣の本多正信・正純親子との政争の結果とも言われますが、秀忠の側近でも土井利勝らが台頭して来ていました。
次には8月と11月、3男:忠政と長男:家昌が相次いで病死してしまいます。
まだ30代の若さだったので、後継の嫡男は元服も終えておらず、隠居した信昌には両家の補佐の役目が重くのし掛かり、その心労からか、信昌も翌年3月に世を去りました。
頼みの綱を一気に失った亀姫ですが、悲しみに暮れる暇もなく、孫たちの治世を懸命に支えていました。
そんな亀姫に追い打ちを掛けたのが、家昌の後継ぎ:忠昌の古河への転封命令で、しかもその後に宇都宮に入ったのは大久保家を改易に追いやった本多正純で、12万石での加増転封でした。

宇都宮城は将軍が日光参詣をする折の宿所で、まだ幼児の忠昌には無理…というのが真相なのでしょうが、完全にブチ切れた亀姫は、弟でもある将軍:秀忠に有る事無い事正純の罪状を並べて訴えます。
そのひとつには『宇都宮城の湯殿には天井が落ちてくる仕掛けがあり、将軍の命を狙っている…』というあり得ないものまでありましたが、この動きは家康残滓の正純を失脚させたい秀忠周辺と結びつき、結局本多正純は改易となります。
これが後に『宇都宮吊り天井事件』と呼ばれるもので、後には忠昌が11万石で帰り咲き、亀姫の目論見は見事に成功を収めました。

晩年の亀姫は打って変わって穏やかな余生を過ごしたそうで、66歳で加納城で生涯を終えた様です。
思えば、人生唯一の大爆発だったのかも知れませんね。
ただ、亀姫には実証はありませんが違う逸話も残っていて、加納城近くの神社には亀姫の嫉妬心から死に至った12人もの侍女の供養碑があるという話もあります^_^;
おわり