信長居館跡の発掘調査現場は、ロープウェーの山麓駅の東側に隣接してあります。
前回に来た時は、調査中で立ち入り禁止になっていましたが、調査が一段落したのか、部分的に見学できる様になっていました。
こうゆう機会に見ておかないときっと後悔するので、孫クン連れて行ってみる事にします。
 
 
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発掘調査は続いてる様ですが、見学者通路が整備されていて、遺構を見学できそうです
 
 ところが、山麓駅はみやげコーナーが充実していて、すでに孫クンの興味を100%独占してしまっています(汗
 
 孫クンにねだられて“ガチャポン”買ってあげる事になりましたが、此処のガチャポンはすべて戦国武将がらみの商品のみです。
 これも情操教育、洗脳の一環と\300入れて回すと、出てきたのはなんと『フランシスコ・ザビエル人形』でした^_^;
『えぇ~?』とドン引きする大人達でしたが、意外にも孫クンはザビエルが気に入ったみたいで、大事そうに持っています。
将来に一縷の希望が見えた一瞬でした(^^)
 
 
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信長居館跡地の模型 中段の土塁遺構は斉藤氏の居館跡で、信長は上段の石垣遺構の部分を拡張した様です。
 
 …という事で結局は、みんなが土産物を物色してる間、単独で居館跡を見て回ります。
 
 
 織田信長が美濃斎藤氏を攻略し、居城を岐阜に移したのは永禄10年(1567)9月の事でした。
尾張に美濃を加えた所領はおよそ100万石くらいと推定されます。
勢力とロケーションは居城の在り方に大きく関わります。
 近隣の敵対勢力に岐阜まで攻め込まれる恐れの無くなった信長は、今後を見据えて“天下布武”の城と城下造りをしました。
 
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こんな居館が想像されてますが、ヨーロッパ人が驚くんだから、もっと立派だったかも
 
 斎藤氏までの城主も稲葉山(金華山)山頂の詰め城と麓の根小屋の居館という中世からの構図は同じですが、信長が整備・拡張した山上の城は、籠城する為の実用の城ではなく、その権力の大きさを下界に知らしめる為の“見せ城=金華の城”だったと思われます。
 
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金華山からの谷川は意外に水量が豊富 奥の紅い橋のところには…
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こんな橋が架かっていたと推定されています
 
 従来の斎藤氏の居館跡は大幅に拡張され、新たに巨石で石垣が積まれて、華麗な建物群が軒を連ねていた様です。
1569年に岐阜を訪れた宣教師:ルイス・フロイスは、『まるでバビロンのようだ…』と書き残しています。
 
 居館の外側には家臣団の屋敷が並び、低い石垣と狭い堀の形ばかりの防御施設をはさんで城下町になります。
 
『人は堀、人は石垣…』を体現した岐阜城下ですが、信長の様に強い支配者の時代は、この無防備加減も“絶対的な自信の現れ“と映ったかも知れません。
 
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二種類の石垣が重なる場所には、正殿があった様です
 
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居館跡の背後にはすぐ岩だらけの山“金華山”が迫ります
 
 信長が安土に移ると、岐阜城は嫡子の信忠が受け継ぎますが、両者が本能寺の変で憤死すると、織田信孝が城主となりました。
しかし信雄との後継争いで攻められると、戦いに向かないこの城はあっけなく落城してしまいます。
 その後は秀吉によって池田輝政に与えられるも、輝政は脆弱な防備を嫌ってか、大垣城を本拠にしています。
 輝政が三河吉田に去ると岐阜城には本来の血筋の織田秀信(信忠の嫡子)が入りました。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍についた秀信は東軍の福島正則や池田輝政に攻められると、これまたあっけなく落城してしまいました。
 
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滝に自然石をあしらった庭園遺構 信長らしくない風流さ(^^;
 
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朱塗りの三重塔 これもあったのかな?
 
 天下を獲った徳川家康は、岐阜城を譜代の奥平信昌に与えますが、戦力としては心許ない城を廃城とし、新城を築く事を命じており、奥平家はやや南の加納の地に平城を築いて、岐阜支配の拠点としました。
 岐阜城の資材は加納城築城に運ばれ、金華山上の天守も加納城二ノ丸の三重櫓に移築転用された様です。
 
 
 
次はいよいよ本来の“城ある記”に戻って、その加納城址を訪ねます。