
『伝本丸』と言われる郭に登ってきました。
郭内は400坪程度の広さで、近江守護、六角のお館様の御殿にしてはちょっと狭い気もします。

虎口は北西に設けられており、麓の桑実寺方面へと繋がっています。
総石垣の食違い門が残っていて、ひときわ厳重に守れていた事が窺われるから、伝承の通りここが本丸だったのでしょうね。
ただ、この虎口と登って来た石段のラインは城内の通路も兼ねてた筈ですから、その南側に塀と門が構えられていた筈です。

本丸虎口を外側から撮影 石垣を使って強固な四脚門があった筈
そうすると御殿の面積は300坪ほどか?
たぶん敷地一杯に建物があった事でしょう。
周囲は1~2mの石垣で囲われ、板塀があった事でしょうが、面白いのは敷地の中央に南北に溝の跡が残り、南の端には水溜めの枡が造られています。
こうゆうのを見ると、妙に生活感があり、城の完成度が窺われますね。


ただ、図で判る様に、本丸にしては西に寄り過ぎていて、外側でここを守る郭としてはもう“伝長束丸”しかありません。
比較的傾斜の緩やかな桑実寺方面の登城路との交通の便は良いのがヒントになるかも知れませんが、この城が戦時を想定した“終の城”として整備されたとは思えない、ひとつの物的証拠に思えます。

本丸からひとつ下の平井丸を経由して観音正寺をめざします。
観音寺城(佐々木城)の基になったお寺で、聖徳太子の開基により山頂近くにあったものを、いつしか現在の地に移したと伝わります。

佐々木城の名前が初めて出てくるのは南北朝の争乱の頃で、南朝方の北畠顕家の西上に対して北朝方だった佐々木氏一族の六角氏頼が籠ったのが最初だそうです。
この頃はまだ観音寺そのものを臨時の砦として使ったものと言われています。
その後に起こった応仁の乱では、観音寺城は幾度となく合戦の舞台となり、落城を重ねるのですが、その都度強化対策が繰り返され、現在の縄張りに近づいて行ったものと思われます。

最終的に現在の姿になったのは六角氏最盛期の定頼の頃で、家臣を城下に集める強制力を持っていた定頼は、同時に繖山からふんだんに採れる花崗岩を利用して石垣を築き、新時代の兵器:鉄砲に対応しました。
それぞれの郭には家臣・国人の屋敷が立ち並び、平時に当主は居ないまでも、人質としての妻子は居たものと思われます。
自主自立精神の旺盛な近江の国人達ですから、そうした手段も必要だったのでしょう。
ただ、この山腹に広がる石造りの巨大構造物は、総石垣の城が無かった当時には、比高差300m下の下界からはさぞ豪壮で脅威に映った事でしょう。

定頼が死に、後を継いだ義賢もこの事業は受け継いだものと思われますが、強くなった六角氏の戦線は遠くなり、三好氏との戦いは京が舞台で、京極氏とは江北で戦って行きます。
北伊勢に積極的に侵攻して行ったのもこの時期で、つまり、観音寺城に攻め込まれる脅威そのものが無い中、この山上の城郭は意味を失ってしまい、ただ生活の不便さだけが残ります。
おそらくこの頃に根小屋の居館とともに城下町が形成されて行った事でしょう。

その後、有利に運んでいた三好氏との戦いは勢力の逆転があり、不利な戦いを強いられる様になります。
勢力が減退して行くと家中にもいろんな内訌が表面化して来ます。
義賢は隠居して子の義治に家督を譲りますが、京極氏に取って替わった浅井氏の侵攻もあって内訌は酷くなり、冒頭の家老:後藤氏の暗殺~織田信長の侵攻へと繋がっていきます。


岩の、しかも花崗岩の多い山です
深い地層が隆起して、長年の浸食で露出した…土地の成り立ちも判ります
永禄11年9月、織田信長は15,000の兵を率いて岐阜を出立、これに同盟の徳川家康、浅井長政勢が加わり、京を目指して六角領に入ります。
総勢は6万と言われますが、天皇の綸旨を得て、足利義昭を奉じて、留守を衝かれない環境を整えているとはいえ、この時期の信長にはとても無理な人数なので、3万程度であったと思います。
迎える六角勢は1万1千が集まり、観音寺城を固めるか…と思いきや、支城群に分散配置させます。
この判断もまた理解に苦しむところで、この時の織田信長の軍には圧倒的な強さが求められており、破竹の勢いで上洛する事こそが何よりの使命です。
裏を返せば、籠城戦に持ち込んで時間を稼がれる事で、朝廷や将軍、京雀達の評判が低下する事を最も恐れていたと思われます。
観音寺城をしっかり固めて一定期間耐えれば、有利な条件での和睦案が信長から示される…六角氏の勝ち目はそれしかないと思うのですが…。

観音寺城とその支城群
考えられる外敵の侵攻には、支城と連携して挟撃するのが、六角氏に相伝された兵法だったのでしょうか?
果たして、僅かな供廻りと観音寺城に残った義賢・義治親子は、支城の箕作山城が落城すると観音寺城を棄てて甲賀に逃亡し、他の支城の兵達も我先にと逃散してしまい、僅か1日で六角氏は信長に道を空ける事となってしまいます。
こうして見てくると、観音寺城とは時代の変化に順応せずに中途半端に拡張整備され、潰しの効かなくなった権威の象徴といった城に見えてしまうのです。
おわり