観音寺城の続きです…。
 
 
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 布施淡路丸から参道に戻り西に進みます。
すぐ右手に山間に登って行く歩道があり、『←佐々木城跡・三角点の看板があります。
位置関係から、尾根沿いの北外郭を辿るルートに違いないので、こちらに入って行きます。
 
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尾根道と左手の郭の入口 こうした構造が続きます
 
 すぐに急な登り坂になり、左手には段々に小郭が重なって続きますが、右手は尾根の北側斜面がほぼ自然なまま落ちて行ってます。
 地図ある大見付と思われる場所に着きました。
樹林に覆われて見通しは利きませんが、北東に向けて張り出した高所である事は地面の起伏から判ります。
 
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大見付跡の高台
 
 見付(見附)という名称は江戸城でお馴染みですが、江戸城の場合は櫓の付属した枡形門を見附と言います。
 ここも尾根道の東の入り口にあたり、当時は冠木門の木戸があって、物見の井楼が上がっていたのでしょうね。
 
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尾根道には堀切で分断された箇所もあります
 
 大見付を過ぎると伝伊庭丸の郭となり、続いて伝馬場丸伝伊庭丸伝三井丸伝馬淵丸伝三国丸と続きます。
これらの名称のついた武将の素性を見てみると
 
 伊庭氏…佐々木氏時代の分家で、井上一族の一家
 馬場氏…長浜馬場城主の系統か? 六角氏の家臣と思われる
 三井氏…近江の土豪で六角氏から養子を貰い有力家臣となった。 信長の侵攻後は伊勢
       松阪に逃れ商人となり、現在の三井に至る。
 馬淵氏…佐々木氏時代の分家で、馬淵一族としては他に青地家、堀部家、岡家などがあ
       る。
 三国氏…越前三国氏の支流で近江高島郡の国人:三国氏か
 
 この尾根の外郭沿いには、これらの有力家臣・一族が割り振られ、広い郭を与えれています。
 
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“大土塁”と呼ばれる部分は自然の馬の背のような地形で、南の郭“三井丸”もずいぶん下にあります これ、積み上げた人工の土塁なんですね
 
 尾根の北側には土塁が築かれて備えを厚くし、土塁上にはそれぞれの家が哨兵を置いて常時監視していたのでしょうね。
 特に三井氏などは200m以上の間口を任されていた事になり、その家勢と兵力の多さが窺われます。
 
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 伝沢田丸が観音寺城の北端になります。
尾根道をさらに北に2kmほど進んで行くと、支城の佐生城があり、山城特有の尾根を大堀切で遮断してないのはその為ですね。
 この沢田丸は虎口も兼ねているので、心なしか石垣が強固に造られています。
それを意識してか、このエリアにも蒲生氏など力のある家臣が割り振られていますね。
 
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城内最高地点 沢田丸の石垣
 
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沢田丸は石垣で囲われています “石垣覗き”…をする高さでもないが(^-^;
 

 沢田丸からは尾根道から一気に南斜面を下って行きます。

この斜面はけっこうな斜度のある急斜面で、日当たりの良さも相俟って広葉樹の生い茂る特有の植生ですが、眼を凝らすと両側にはやはり小郭が連続して造られており、さながら南向き雛壇住宅団地の様相です。
 
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この立派な石垣は倉田丸の郭か?
 
 この辺りの氏族も、六角氏の分家である高宮氏、甲賀衆の主力である三雲氏、和田氏などが割り振られていて、本丸~観音正寺がある中段より上の郭には有力かつ大きな家臣屋敷が陣取っていて、中段より下の敵の攻撃を最初に受けるエリアには、比較的小規模な国衆が配された事が想像できます。
 
家臣の配置には、それなりに戦略が感じられるところですね。
 
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この坂道は石段だった様ですが、もうかなり荒れていますね
 
 下り坂を降りきると、東西に走る通路にぶつかります。
に折れると観音正寺に至り、右への道を辿ると伝本丸に至ります。
ここはまず本丸を目指します。
 
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ここの通路も石で葺かれていた形跡がありますね 明らかに兵卒の歩く道とは違います

 
 山城では最頂部に本丸が置かれ、それを取り巻く様に、または階段を下る様に守備の郭が置かれるのが普通であり、こんな風に中段根小屋とは別に本丸があり、周囲を家臣の郭が囲む縄張りは初見なので、この城の本丸の機能とは?が今回のメインの関心事項なのです。
 
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本丸へと続く、立派な石段が見えて来ました(^^)

 

 
つづく