3月4日朝… 近鉄特急で大阪へ向かいます。
普段、プライベートで団体行動は滅多にしないのですが、職場の仲間達と朝から一杯やりながらの移動です^^;
さあ目的地に着きました。
大坂は今日も活気に溢れ…
大坂の名所:なんばグランド花月
今日は職場の親睦で、若者が企画した『よしもと新喜劇観劇ツアー』に参加です。
関西人には、豪華なメンバーですね(^^;
東日本の人達には馴染みが薄いよしもと新喜劇ですが、関西人は皆子供の頃から慣れ親しんだお笑いの定番です。
土曜日に学校が終わると急いで帰り、家で昼飯を食べながらテレビで観た記憶は、おそらく関西人共通のモノでしょう。
昼の部だから弁当食べながらの観劇です
昔からワンパターンのストーリーにワンパターンのギャグ… それでも何故か大笑いしてしまう不思議な魅力は何なんでしょうか?
数十年の時間が経って、出演者の顔ぶれは総替わりですが、ストーリーはほぼ同じ。
それでも、今回もまた大笑いです^_^;
前座が終わると撮影禁止! 残念
久しぶりに腹を抱えて笑って、スッキリしたあとは、仲間達と別れて単独行動です。
彼らは串焼き食べに行くそうです
難波から地下鉄でひと駅南に下り、通天閣を見ながら東に向けて少し歩きます。
間もなく、右手に見えてきた森が『天王寺公園』です。
動物園で有名な公園ですが、北東には小高い小丘があり『茶臼山』と呼ばれています。
この茶臼山、大坂冬の陣では徳川家康が本陣を構えた丘で、大坂夏の陣では逆に城外に出た真田信繁が陣を構えました。
茶臼山方面の森 向こうのビルは「あべのハルカス」
中に入って行くと池に囲まれた茶臼山陣城跡が現れます
茶臼山は前方後円墳の後円部分を利用した城址と言われています
慶長20年(1615)5月6日、真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛ら1万8千は、奈良方面より進軍して来る徳川軍3万4千(主力は伊達正宗隊)を河内平野の出口で叩く為に大坂城を出発しますが、濃霧で方向を見失った各隊は定刻に集結する事ができず、先着した後藤隊のみで戦闘を始め、真田隊が到着した時にはもう後藤隊は壊滅した後でした。
策をミスった信繁は毛利隊を退却させる傍ら追撃する伊達隊と激闘を演じ、最後は撃退しますが、大きな損害を受けて後退しました。
去年の残骸でしょうか、真田丸のデコレーションがいっぱい
山上には案内看板なども設置されています
手作り感満載の陣立て看板もありました
その夜、城内で軍議をひらき、最後の頼みの綱である豊臣秀頼の出陣を請うた信繁でしたが、この期に及んでも反対する側近や淀殿の同意を得る事が出来ず実現しませんでした。
翌7日朝、信繁と毛利勝永の隊は南方の茶臼山と岡山に陣取り、徳川方諸隊を挟んで家康本陣に対峙します。
『真田丸』より 最後の突撃
万策尽きた最後の作戦は『家康の首』で、両隊が前面の徳川方諸隊を蹴散らして隙間を作ると同時に、後方に控える明石全登隊が直接家康本陣を襲い、首を取る…というものでした。
しかしこれも、死に場所を探していた本多忠朝が先に毛利隊に仕掛けた事ですぐに乱戦となり、潰えてしまいます。
茶臼山の北300mほどにある安居神社 信繁終焉の地と言われています
信繁は自ら家康本陣を目指して前面の松平忠輝隊に突っ込み、これを破ると次々に10近い敵の隊を破り、家康本陣に迫ります。
家康は近習に守られて3里(12km)も後退したそうです。
しかし、獅子奮迅の活躍をした信繁隊も衆寡敵せず、次第に押されて行って最後は元の茶臼山あたりで壊滅しました。
境内にある信繁の碑
碑の横にはまだ新しい銅像があります
長い戦いに精根尽きて、茶臼山北方の安居神社あたりに居た信繁は、松平忠輝配下の西尾宗次に発見され、『わが首を取って手柄にされよ』と言い残すと無抵抗のうちに討ち取られたと言います。
享年49歳でした。
最期の時を顕わした像なんでしょうね
この日の信繁の戦いを見ていた島津忠恒は
『御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由…』と書き残しています。
『真田日本一!』は上杉景勝の言葉ではなかったのですね^_^;
徳川家康も同じ様に信繁の死闘を語っていて、
『真田ともあろう者が大きな失敗をした。昨日、正宗との戦いであれほどの損害を出さなければ、今日ワシの首は無くなっていただろう…』
と語ったそうです。